アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳63


第7章 環境支配、欺瞞、「愛の爆撃」(6)

いかなる行動についても、その背後の「真の」動機が何かを知ることは、――関係者にとってすら――常に困難である。とりわけ指導的な立場にある人の中には、単に会員拡大のために、さらには現場におけるファンドレージング要員の数を増加させる上で、愛の爆撃の効果を計算する者もいることは疑いない。入会する可能性のある人は、天国実現の目標を達成するための潜在的な手段にもなる。個々人への愛は、愛と人類の王国を実現するための手段に還元される。(注17)もう一つ言及されなければならない要因は、この運動の内部では、「霊の子女」を獲得することに対して一定の評価が付与されるということである。新規の会員を運動にもたらし、それによって霊の親になる人は、自分の霊の子の面倒を見る中で愛する能力を成長させるものと考えられている。実際、祝福を受けたカップルは各自がそれぞれ少なくとも三人の霊の子女を持つまでは「家庭の出発」(すなわち、床入りして結婚を成立させること)ができないというのが、(常に実践されているわけではないとしても、理論上は)規則となっているのである。

しかしながら、大部分のムーニーは、彼らがゲストに愛情を注ぐとき、人を欺いているのだという言い方をされたら、本当にショックを受けるであろう。彼らは自分たちがゲストを人間として愛するのは当然であると抗議するだけでなく(そして彼らの多くが何人かのゲストに対して本物の愛情をはぐくむことは疑いないのであるが)、ゲストがムーニーになることは(世界のためになるだけでなく)ゲスト自身のためにもなるのだと確信しているであろう。ムーニーたちはさらにこう主張するであろう。回心する可能性のある人に対して愛を注ぐことは、カルビン派の親やカトリックの尼僧が地獄の火や永遠の天罰(注18)についての話をして子供たちを怖がらせることよりも悪くないし、決して人を操ることでもない。自分たちがゲストに対して描いて見せる愛ある共同体の姿は、新生派のクリスチャンたちが示すあふれんばかりの熱狂とそれほど異なるものではないし、おそらくそれほど極端なものでもない、と。

(ムーニーでないわれわれにとっては)驚くべきことではないが、統一教会の会員としての生活は決して安楽なものではない。「愛すること」の実践が、さまざまな意味で、実際には逆効果となるような、一見したところ無情な「社会の論理」があることについては、すでに他のどこかで論じた。(注19)例えば、ムーニーたちがこの世を神中心の家庭を単位とする理想世界に変えようとすればするほど、彼は自分自身の家庭生活に支障をきたすことが多くなることに気付く。これについて論じれば、私が本書を書くために自分で定めた趣旨をはるかに超えることになるが、統一教会内の生活について知るのに役立つもう二つのポイントについて述べてみたい。第一の点は、当たり前のことに過ぎないのだが、統一教会の提示する選択肢は大部分のムーニーたちが期待するようには「機能しない」ということを信じるのは完全に可能であるということだ。そのことのために、全てあるいは大多数のムーニーが、彼ら(および他の人々)がもっと一生懸命に努力しさえすればそれは機能するし、機能し得ると信じていることが、必ずしも欺瞞的であると信じる必要はない。第二の点はもっと実質的である。愛の爆撃も、修練会で行われているいかなることも、自己の意思に反して「誰でも」ムーニーにすることを保証するほどの効果がないことは証拠が明確に示しているのであるが、また、私は普通のムーニーの大部分に関しては「欺瞞的である」というよりは「誤っている」と分類したい気になるのであるが、それにもかかわらず、修練会で形成された友情が、いくつかの回心をもたらす上で重要な役割を果たしたということと、そしてさらに西洋社会の大部分の多元主義的な環境とは決定的に異なる共同体の一員となる道を備えたことは明らかであるということだ。多くの宗教団体と同じように、統一教会もその内部には唯一の支配的な世界観しかなく、「全制的施設」(訳注:total institution=全制的施設とは、多数の類似の境遇にある個々人が、一緒に、相当期間にわたって包括社会から遮断されて、閉鎖的で形式的に管理された日常生活を送る居住と仕事の場所、と定義されている)の特徴もいくつか見られる団体ではある。(注20)このこと自体が、より広い社会の不確実性に対処するよりは、むしろ(比較的)「閉ざされた」共同体の一員となることを選ぶような人々にとっては一つの魅力となり得る。しかしまた、そのような団体は、何らかの形の「愛の絆」が存在しなければ、より「開かれた」環境の中に住むことの方をもっと好むような人々に対して与えられる選択肢を制限することもあり得るのである。

言い換えれば、「愛のある共同体」に魅力を感じるがゆえに統一教会の会員になることを(自分の性質や過去の経験に照らして)選択するが、ひとたびムーニーも他の人々と同じように愛のないこともあり得るのだということを発見するや、離れていく者たちがいる。しかしまた、愛の共同体を自由意思によって受け入れた結果として、自分は必要とされている、友人や教会や神を失望させたくない、という感情によって運動に縛りつけられている者たちもいるのである。友情や忠誠というレトリック、――及びその現実――は、ムーニーたちを同調させるようかなりの圧力をかけるために使われることがあり得る。「通常の」愛によって、愛する人の欠点が見えなくなることがあり得るのとほぼ同様に、時としてムーニーたちも、修練会で出会った愛と友情のビジョン(および、まさにその経験)に既に引きつけられていなかったならば、恐らく彼らを運動から遠ざけたであろう実践の少なくともいくつかに対しては、少なくともしばらくは目を閉じるであろう。このプロセスに関連しているのは、個人に対する忠誠が団体に対する忠誠に転換され得るということである。これは、統一教会のような堅い絆で結ばれている団体の場合にはなおさらである。(注21)しかしながら、「ムーニーは全知全能の主人によって現在の任務に送られる前に毎朝ネジを巻かれる、考える力も感受性もないロボットである」という理論を既に信奉している者にとっては、このことは観察することも、あるいは理解し始めることさえ期待できない現象である。

既にほのめかしたように、統一教会のような団体がどのように機能しているのか(あるいは機能できずにいるのか)を理解しようと思えば、われわれはまず、それを動作させている人的資源についてなにがしかを理解しなければならない。そして、ここまでの三つの章で論じようとしたように、統一教会の示す選択肢に魅力を感じる人々もいれば影響されない人々もいるのはなぜかを理解しようと思えば、ゲストのそれ以前の経験およびそれ以前に形成された性質を考慮に入れなければならないのである。以下の二つの章においてわれわれは、会員になる可能性のある人々の「原材料」に注目することにより、回心者が修練会に「身につけて持ってくる」受容性とはどのようなものであるかを発見しようと試みるであろう。

(注17)統一教会のような運動の一つの興味深い特徴は、彼らが絶対的価値観の存在を主張しているという事実にもかかわらず、彼らが「目的は手段を正当化し得る」ということを受け入れる限りにおいて、自身の活動はカント的な倫理よりもむしろ実用主義的で功利主義的な原理によって導かれている、と彼らがとしばしば感じている点である。そのような立場から生じる政治的・哲学的な問題のいくつかに関しては、カール・R・ポパー「開かれた社会とその敵」第二巻、ロンドン、ルートレッジ&ケガン・ポール、1945年 を参照。
(注18)統一原理を聞く機会があったにもかかわらず、メシアに従わない者に対してはサタンや霊界がどのように攻撃するかという脅しをもって人々に圧力をかけるムーニーもいる。しかし、これは会員獲得のための活動においてはごく小さな役割を果たしているにすぎない。既に運動に参加している者を統制する手段としては、はるかに重要な役割を果たしている。
(注19)バーカー、「愛すること」。
(注20)「全制的施設」と「全体主義」については、E・ゴフマン「保護施設:精神病患者およびその他の入院患者の社会状況に関する論文集」、ガーデン・シティ、ニューヨーク、アンカー・プレス/ダブルデイ、1961年、およびR・J・リフトン「思想改造と全体主義の心理:中国における『洗脳』の研究」、ニューヨーク、ノートン、1961年を参照。しかしながら、歴史を通して、人間は強制的な組識(刑務所や保護施設など)と共通する特徴をいくつかもった自発的な組識(修道院など)に加入してきたことは強調されるべきである。全制的施設という概念が宗教団体に対しては限定的に適用可能であることに関して役に立つ議論としては、M・ヒル「宗教団体:ヴァチュオソ教団と19世紀のイギリス教会によるその合法化」ロンドン、ハイネマン、1973年、pp. 72-82 を参照。また、A・エツィオニ「複合組織の現代的分析」グレンコー、イリノイ、フリー・プレス、1961年をも参照。
(注21)多くの点で、統一教会は「高集団」であるが、統制の面では「低い鉄格子」の団体であると特徴づけることができる。M・ダグラス「自然の象徴:宇宙論の探求」ロンドン、バーリエ&ロックリフ、1970年を参照。
(訳注)メアリー・ダグラスは宗教団体の類型化に最も貢献した現代の人類学者の一人である。ダグラスの類型論は、個人に対する支配は「集団帰依」と「鉄格子による支配」という二つの次元からなると基礎付けている。彼女は「集団帰依」という言葉を、集団への参与や忠誠という次元を表すものとして用い、「鉄格子による支配」という言葉を社会による規制や束縛、あるいはどの様な集団に所属しているかに関わりなく、社会における個性化の度合いを表すものとして用いている。したがって、しばしば「高集団」と略される「高い集団帰依」は、集団への参与度や忠誠が高いことを意味し、一方「低い集団(帰依)」はその反対を意味する。同様に、しばしば「高い鉄格子」と略される「高い鉄格子による支配」は社会による規制や束縛が強い状態、あるいは社会において個性化の度合いが少ない状態を意味し、また「低い鉄格子(による支配)」は、その反対を意味する。したがって低い鉄格子と低い集団帰依への方向は、混沌としたバラバラの個人主義への方向を示している。
鉄格子による支配と集団帰依の高低を組み合わせることにより、ダグラスは個々人の社会環境の認識について、次のような4つの型を提示した。(A)低い鉄格子と低い集団帰依(B)高い鉄格子と低い集団帰依(C)高い鉄格子と高い集団帰依(D)低い鉄格子と高い集団帰依。
デビッド・オストランダーに従い、ダグラス(1982b:4)はA型(低い鉄格子と低い集団帰依)を「個人主義」と呼び、B型(高い鉄格子と低い集団帰依)を「個別化された服従」と呼び、C型(高い鉄格子と高い集団帰依)を「帰属的ヒエラルキー」と呼び、D型(低い鉄格子と高い集団帰依)を「党派主義」と呼んだ。そして「バラバラの個人主義」(低い鉄格子と低い集団帰依)の世界観は、個人主義的で世俗的な(非典礼主義的な)宗教に属する人々の経験の特徴であり、「個別化された服従」(高い鉄格子と低い集団帰依)の世界観は、呪術や迷信的・超自然的な社会的慣習を信じている人々の経験の特徴であり、「帰属的ヒエラルキー」(高い鉄格子と高い集団帰依)の世界観は、伝統的なローマ・カトリック教会のように位階的で典礼主義的な宗教に属する人々の経験の特徴であり、「党派主義」(低い鉄格子と高い集団帰依)の世界観は、世俗から隠頓する分離主義集団に属する人々の経験の特徴なのである。

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