アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳12


第一章 接近と情報収集(8)

私の日記とムーニーの視点の学習

 私が参与観察に従事したときはいつでも、また私が非公式に行った数百回のインタビューの度ごとに、そして研究と関連がある電話をしている間はいつも、私はできるだけ早く事実的情報と、起こっていることに対する私の個人的反応の双方について、詳細なメモを取った。これらのメモはしばしば、私がどこへ行くにも持ち歩いた小さな携帯用テープレコーダーに吹き込まれた。研究の始めの頃には、私はテープやメモが見つけられるのではないかと恐れて、紙切れを隠したり、観察したことをひそひそとレコーダーに囁いたりなど、ありとあらゆることをやった。私の秘書はその音を聞いて、荒い息遣いを電話越しに聞いているようだと不平を言い、テープを文字に起こすことができなかった。時がたつにつれて私は、このような007的戦術は全く不必要だということが分かった。一つの出来事(私がカリフォルニア州のキャンプKで週末を過ごしていて、私のノートが二時間ほど消えたとき)は別として、私が行っている観察に誰かがほんのわずかな関心でも見せたことがあると信じる理由はない。実際に一度だけ、私は特別に疲れたと感じて、私以上に疲れているムーニーに短い休暇のために「逃避」しようと提案したことがあった。彼女は同意し、二、三日でニューヨークに戻るだろうと即座に「中心者」に報告してから、私たちは出掛けた。(私たちは後で、私が彼女をディプログラムするか、彼女が私を洗脳するかについて憶測した者が何人かいたことを知ったが、実際に私たちはリラックスして楽しむこと以上のことはしなかった。)そしてある夕方、しばらくの間私を魅惑し悩ませもしてきたテーマについて、私たちは討論を始めた。しかしながら、一日中を日光の下で過ごしたのと、海と、私たちがかなり大胆に訪れたナイトクラブのおかげで、まもなく私は眠ってしまった。この話には続きがあって、私の連れは、私がベッドのそばに置いていたままにしていたテープレコーダーを見つけ、そのスイッチを入れて、私が朝目覚めた時には最も価値のある「インタビュー」の一つを私にプレゼントしてくれたのである。

 研究の終了までに6冊の大きなファイルをいっぱいにした「日記」は、明らかに事実的データを記録するために有用だった。それはまた、私が研究の始めには奇妙だとか風変わりだと思っていたことを思い起こすのに役だった。こうしたことに言及しなくなった理由は、それがいかに運動の内部論理に適っているかを発見したか、あるいはそれが私が信用しなくなって久しい噂に基づくものであると判明したからだった。数年後にそれを読むことになったときに私をいくぶん驚かせた初期の記録は、例えば、(ムーニーがいつも鍵を掛けていると聞いていた)ある特定のセンターの鍵は、誰でも手に入れることのできる所に下げられていたし、表のドアは内側から簡単に開けることができた、というものだった。さらに珍奇な記録の一つは、タンポンと生理用ナプキンが取り替えられる頻度を書き留めてたものだった。(これは、女性がムーニーになる時、いつも月経が終わるということを読んだことがあったからだ。)(注18)

 私の反応の記録は、もし部外者がムーニーの視点についてもっと理解しようとするのであれば、彼らに何を伝えなければならないのかを思い起こす上で、とりわけ役に立った。私は何度か、コミュニケーションの問題を強制的に痛感させられた。そのうちの一つが、私が夫と共に、私がかなりよく知っている二人のムーニーに会ったときのことだ。(これは、私の参与観察における第二段階である「相互作用」の段階の期間中のことである。)私たちはムーニーたちと楽しくコーヒーを飲み、それから別れた。「彼らは悪くないでしょう?」と、私は夫に尋ねた。彼は概して、ムーニーの近くにはどこへ行くことも拒んだが、それは彼が言うことには、ムーニーたちが彼にクリープを渡すからだった。「そう、彼らはむしろ素晴らしく見える」と彼は認めたが、「しかしあなた、あなたは全く違っていた」と言ったのである。

 何が起こったかと言うと、次のとおりである。一方で、ムーニーたちはいつも部外者に対して行っている、私の夫が非常に嫌いな「翻訳」(それは「恐ろしいくらい親切」であることを含む)を行うことなく、「自然」に振舞っており、他方で私は、日々の生活で採用しているものとは異なる一連の概念や仮定によってコミュニケーションができるように、「ギヤ・チェンジ」を行っていたのである。それは、私がこの話をするのを聞いた一人の反カルト主義者が示唆したように、私のムーニーとの関わりが非常に強かったので、私が統一教会用語を使い始め、私の「普段の」生活の中でムーニーのように考えていることに私の家族が気づいた、ということではなかった(注19)。夫はそれ以前に、私がムーニーのように振舞うのを見たことがなかったので、驚いたのである。

 私にとっての驚きは、様式の違いが非常に著しいということだった。私の夫は、私が年上の親戚と一緒のときはあるやり方で、自分の子供たちと一緒のときは別のやり方で、親しい友人と一緒のときはまた別のやり方で、自分の学生たちと一緒にいるときはさらに別のやり方で振舞っているのを見てきた。私は、ムーニーと一緒にいるときの振舞いにおける「適切」な(そして大部分は無意識の)変化が、これらその他の「適切」な(そして大部分が無意識の)振舞いの変化のどれとも違っている、ということに気づかなかった。要するに私の夫は、私が自分の調査結果を伝えようとしている人々と同様に、ムーニーの視点にあまりに不慣れだったので、誰かが、特に長年にわたって親しく知っている者がそのようなやり方で振舞うということが、彼にとっては全くもって不自然に見えたのである。私自身の「翻訳」の旅を振り返ってみると、二つの「現実」の間に橋を再構築する上で役立ったのが、実に私の日記なのである。

 もちろん私は、現実を見る一つの視点から他の視点へと全く申し分のない翻訳をすることなど、誰にもできないということを知っている。これは部分的には、それぞれの視点が非常に多くの異なる面をもっているからであろうが、もう一つの理由は、未知の視点をあまりに疑い恐れるがゆえに、あえて翻訳を「聞こう」としないような人々が常にいるからでもある。例えば、一人の取り乱した母親は、息子がムーニーになった結果として回復不可能な脳障害を被ったということを、固く信じていた。彼女は、なぜ彼がそのような全くのナンセンスを信じるのかを説明する方法は、他にはあり得ないと言った。およそ一時間の会話の後で、少なくともその時点では、人が『原理講論』(第三章参照)の内容を信じるために必ずしも脳に障害を負う必要はないと説得することによって、私は彼女を落ち着かせたと思った。突然、新たなヒステリーが噴出した。「あなたはそれを全く健全で、正気で、理解可能なものにしようとしている」と、彼女は泣きながら言った。「あなたはそれを信じているに違いない。あなたはムーニーに違いない」と。そして私たちは全くの振出しに戻ってしまった。彼女は、私が統一神学について議論したムーニーの何人かと同じように、人は何かを善あるいは真理だと信じない限り、それを理解することはできないと考えているように見えた。しかし、おそらく逆説的ではあるが、人が何かを理解することなしに、それが虚偽あるいは悪であると確信をもって知ることができると信じているように見えるのもまた往々にして、正にこうした人々なのである。

(注18)メンバーの中には2-3カ月間生理がない者もいる――これは同年代の非ムーニーたちの中にも同様にいる。

(注19)FAIRニューズレター、1981年6月号、13ページ。※訳注:FAIRは、Family, Action, Information, Resourceの頭文字を取ったイギリスの代表的な反カルト組織。2007年以降はThe Family Survival Trust として再編されている。

 

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