アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳73


 

第9章 感受性(5)

前章で述べたように、人生のある時点で、大部分の回答者たちは一時的な「落ち込み」(幸福感、満足感、自信などにおける)を経験したのであるが、ムーニーになるような者たちは、他の回答者よりも長く幸福感や安心感を享受していたと主張する傾向にあり、したがって人生のより後の方で「落ち込み」を経験する傾向にあった。時には、家を出てから初めて感じた場合もあった。青年期を通じて通常経験する問題や疑問の多くが、ムーニーの場合には同世代の者たちよりも遅くやってきたようである。例えば、多くのムーニーは人生の比較的後になるまで、個人的な人間関係(ボーイフレンドやガールフレンド)で大きな問題を経験することはなかったようであり、また神の存在についても通常より年長になってから疑うようになったという傾向がある。これは必ずしも全てのムーニーに当てはまるものではないが、彼らの中のかなり高い割合の者たちが、同世代の者たちよりも長く人生の諸問題から守られていたように思われる。彼らは年齢の割には知的に優れているという事実にもかかわらず(ときには恐らくそのことのゆえに)、ムーニーは情緒的には未成熟であった場合があるように思われる。これは彼らが母の胸から引きずり出されたということを意味するのではない。彼らは対照群よりも長く家に留まっていた傾向があるものの、運動に入会した時点で両親の家が彼らの永住場所だとみなしていたのは4分の1に過ぎなかった。半数以上は入教の1年以上前に両親の家を離れていたし、38%は入教の3年前以上に離れていた。

私が示唆しているのは、幸福で安定した家庭背景を持っていた者たちの中には、初めて世の中に出て行ったときに経験する失望、痛み、幻滅などに対処する準備が十分にできていなかった者が若干おり、そのような人々は、同じ価値観を持ち、同じ基準を信じているように見える友好的な人々のグループと出会うことによって、かなりの安堵感を経験したかもしれないということである。多くのムーニーが運動と出会ったときの最初の反応は「自分は家に戻ってきたように感じた」と語ったことは、まったく驚くにはあたらない。これはムーニーが単に家に戻りたがっていたということを意味しているのではない。彼らの大部分は統一教会に出会うかなり以前から、両親から独立する必要性を感じていた。これは成長の正常パターンの一部に過ぎないが、少数ながらも認識可能な数のムーニーが、両親の世話と愛情を息苦しく感じ、両親から逃れることを切に望んでいたのである。それはときには息子(あるいは娘)に対して、自分と同じ道を歩んでほしいとか、自分以上になってほしいと期待する父親であった。そしてその「以上」とは、子供にとっては魅力的でない職業における成功として規定されることが多く、子供自身は自分が選んでもいない方向に向かって教育の生産ラインに押し出されているように感じており、その方向は彼が幼少時代に両親によって教え込まれた理想そのものを達成するのを妨げているように思われたのである。

もう一つのタイプの窒息は、自らの人生を惜しみなく捧げて子供たちの面倒を見てきたが、子供たちが離れていくのを望まない母親によって生じた。彼らは、子供たちが母親を必要とする以上に、母親が子供の依存を必要とするという事態になっていた。子供(いまや20代前半になっているであろう)は、それに抵抗して自分自身の生き方を選ばなければならないと感じていた。しかし同時に、彼が自分は大切にされていると感じ、自分のために決定がなされるという環境で育てられたという事実により、彼が自立の決断をする時にも、もう一つの「われわれはあなたを愛しており、すべての答えを持っている」という環境の中でその決断をする傾向がより強くなる、ということもあり得るのである。

さらに次のような一群のムーニーを認めることが出来る。彼らは同じような愛情と思いやりの感情によって育てられ、保護されてきており、ほぼ同じような価値観にさらされてきたけれども、自分たちの両親を威圧的というよりもむしろ過度にリベラルだと感じてきたようである。そのような両親は、恐らくかなり突然に、子供が自分自身の決断をすることを期待したであろう(「いまやお前も大人になった」)。しかしムーニーが「遅い大きな落ち込み」を経験したとき、彼は自分が直面した選択や困難に対して準備が十分に出来ていないと感じたかもしれない。大切に守り育てられてきた人々にとっては、自由が多すぎることによって生じる精神的不快感は、自由が少なすぎることによって乗じるものと同じくらいに大きいのである。

不幸な家庭の出身のムーニーもなかにはいる。痛みと苦しみを早くから体験している者たちもいる。しかしながら、一般的には幸福で、守られ、思いやりがあり、礼儀、義務、隣人や国家や神に対する奉仕が当然の価値観であるとされているような家庭背景が、ムーニー候補者が統一教会の修練会に携えて持ってくる経験の束の一部であると思われる。

教育制度
ムーニーの証言の中で教育制度のことがはっきりと言及されるのは希であるが、にもかかわらず、教育制度は若者を入教させる素因として重要な役割を演じていることが認められる。それは単に潜在的な回心者たちが最も多く経験してきたであろう制度の一つであるというだけではなく、その組織、その価値観、そしてそれが現代社会において演じている役割のゆえでもある。今日の世界で「成功する」ためには、適切な資格を持つことが必要である。そしてこの適切な資格は、少なくとも産業化された西洋では、通常は教育制度が必要な教育水準に達したと判断した者たちに配布する紙切れのことである。それは主に同年代の人々との比較に基づいた基準である。その制度は紙の保有者のピラミッド型の構造を生み出している。多くの人はより価値の低い証書を手に入れ、比較的少数の人々がより価値の高い証書を手に入れる。統一教会に入会する若者たちの多くは、このピラミッドの滑りやすい坂を上っていくうえで、前途有望なスタートを切ったであろう。前章で見たように、1つのグループとして、彼らは国民の平均よりもはるかによい成績を上げている。

大部分のムーニーの両親が、子供の教育制度における成績が将来の業績にとって重要であると信じていたことはほとんど疑いない。ムーニーの約4分の1が(一般の英国人全体の約5%と比較して)、授業料が必要な学校に通った。このようにムーニー候補者は「客観的な」基準で同年代の人々よりも良い成績を上げていただろう。またそれだけではなく、彼は「主観的に」も自分自身を成績優秀者とみなすよう促されてきた傾向がある。そして彼は学問的な成功の基準を一般的な成功に至る道として受け入れ、そのような言葉で自分自身を規定し始めたであろう。このことはインタビューの中や、回答者に人生の様々な期間における自分自身を描写するキーワードを用いるよう求めたアンケートの中で非常にはっきりと示された。質問は教育や学問上の能力については一切言及していなかったが、回答者の過半数が、ある時点では、教育制度の価値観によって測られる成績という観点から自分自身を規定していた(例えば、「勉強好きな」「学問に対して意欲的な」「学校での成績が良い」)。対照群には明確なパターンはなかったが、ムーニーは人生の早い時期に(十代後半になるまで)、そのような自己規定を用いる傾向にあった。しかし彼らはその次に、もはや自分自身は教育制度の協力的な一部ではないと再規定することを示唆する言葉を記入する。たとえ客観的には彼らはその中にあったとしてもある。この拒否はときには制度に対する非難となり、ときには自己に対する非難となった。記入された言葉は、「怠け者」「学校の勉強に興味がなくなった」「学問の競争に代わる価値観を探し求める」「勉強に飽きた」などである。言い換えれば、ムーニーは今日の世界で「成功する」ために利用できる主流の道を上っていく能力を持った者の一人として自分自身を規定して出発した。しかしその後、彼は自分が行けるだろうと仮定していたところまでは行けないと分かったのである。そして、あるいは(おそらく、必ずではないが、結果的に)彼は手段も目的も追求するだけの価値がないという結論に至ったのである。(注17)。

現代の西洋を、競争が溢れ、幼い頃から学校で良い成績を上げることが要求されている社会として経験したのは、なにもムーニーだけではない。多くの教育専門家が、性急な判断が子供たちに下されるか引き出されるかしており、子供たちには自分が本当に何を探究したいのかを深く考えるための自由な時間がほとんど与えられていない、という不満をしばしば述べている。教科も、子供たちに本質的な満足を与えるためというよりも、いかに試験でよい成績を上げることができるかといった観点から選ばれている。実際、ひとたび制度を受け入れれば、その人は良い成績を上げことに忙しくて、何が満足を与えるものなのかが分からなくなってもおかしくない。自分は立ち止まってじっくりと見つめる時間を騙し取られたと信じるのも無理はない。成功の機会は万人に対して平等に与えられている、などと社会通念は言う。少なくとも多くの潜在的な回心者の出身である伝統的な中産階級の伝承はそう言うのである。だとすれば、失敗は個人の失敗の結果であるに違いないということになる。しかしまた、もちろん、非常に賢い(あるいはおそらく非常に幸運な)人でなければ、誰もがある段階で失敗者になる違いない。ピラミッドを上に登っていけば行くほど、競争は熾烈になっていく。制度が提供する目標は、トップに到達することである。それ以下の業績は、システムの定義においては、より劣った立場なのである。トムが一番とするなら、ディックが望めるのは二番になることだけであり、ジョナサンは三番に終わるだろう。それが価値あることだろうか? 少なくとも最終的に統一教会に入会することになる人の中には、そうではないと既に判断していた者たちがいた。

(注17)大部分の評論家がすべての新宗教を一括りにする傾向を考えると興味深いのは、私がアンケートを求めた少数のプレミーたち(グル・マハラジ・ジのディバイン・ライト・ミッションのメンバー)は、いかなる時期にも自分自身を教育制度における成績優秀者とは規定しない傾向にあったことである。

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