アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳71


第9章 感受性(3)

年齢以外の最も顕著な相違は(それと関連してはいるけれども)、入会する前に結婚していたフルタイム・メンバーは7%以下だったが、ホームチャーチ会員で「結婚していなかった」のは5分の1に過ぎなかったことである。後者の半分は依然として既婚者であった。17%は別居したり離婚したりしていた。11%は配偶者と死別していた。3分の2は子供を持っており、しばしば大家族であった。未婚の母が数人いた。12%が自分の子供たちによって運動に導かれた者たちであった。ホームチャーチ会員の男女比は、男性偏重というよりも、56対44で女性の方が多かった。4分の1が職業欄に主婦または母親と記載した。13%が看護師または助産師であった。その他は、秘書、事務員、または半熟連工であった。半数以上は中流階層に属していたが、その職業は下流中産階級または中流労働者階級への偏りを示していた。

ホームチャーチ会員がいるということは、統一教会がフルタイムのムーニーの出身階級よりも、もっと幅広い顧客層にアピールできるということを示唆している。だがそれは、若い未婚のムーニーだけが捧げる覚悟ができている、絶対的献身と犠牲的なライフスタイルを要求しない限りにおいて成功しているのである。そうした生活はある面で「普通の」教会員というよりも、修道士、尼僧、あるいは神父に対して期待されるような献身の基準なのである。にもかかわらず、ホームチャーチ会員がしばしば与える印象は、自分たちは孤独で満足感の得られない生活を送ってきたし、おそらくいまなお送っているというものであった。彼らは関わりたいし、支援したくて仕方がないのである。実際、最もよく聞かれる不満の一つは、運動が自分たちを十分に用いてくれないということであった。

念のために最新の情報を提供しておこう。1984年初頭の時点で、英国の会員は、新しい分類法によって分ければ(注10)、約750名の「準会員」(「フルセンター会員」の両親を40名以上含んでいる)、60名の「実践会員」、そして約50名の「フルホーム会員」がいることになる。さらに約250名のフルセンター会員が英国におり、それとほぼ同数の英国で入会した会員が、現在は海外に居住している。その大部分は米国である。海外で入会した英国の会員数は、推定するのは困難だが、恐らく約100名である。

機関とその影響
家庭的背景
フルタイム・メンバーの分析に戻ろう。前章において私は、不幸な家庭的背景を持っているがゆえに人はムーニーになるという理論は立証に耐えるものではないことを示唆した。しかしこのことは、幸福な家庭的背景をもっている「にもかかわらず」人々はムーニーになると言うことを意味しているのではない。彼らは、私が信じるには、「そのことのゆえに」入会する傾向が極めて高いのである。すなわち、ムーニーが安定した家庭生活の温かさや愛情を求めているのであれば、その理由は彼らがそれを知らなかったからということではなさそうなのである。彼らはそこに戻ることを望んでいる可能性がはるかに高い。彼らは尊敬し愛する両親というものを知らなかったので、「真の父母」としての文師夫妻に頼るようになる、ということではなさそうである。彼らは自分の親を尊敬して育ってきたからこそ、「親の位置」にある人々は尊敬と従順を要求できる正当な理由があるという考えに反応することができる、という方がはるかにありそうである。(恐らくだからこそ、彼らは自分の親もまた、他の人々と同様に何らかの欠点があり、なんでも知っているわけではないということを認識したときに、特に幻滅したり、道に迷ったりするのである。)さらに、ムーニーは子供の頃に植え付けられた価値観を拒絶しているのでは「ない」ように見える。彼らはむしろ、それらを非常に良く受け入れたので、まさにその基準や理想に「従って」生きる機会に応じる覚悟が出来ているのである。(社会はその機会を彼らに提供していないようにみえる)。

私が最初に修練会参加者の出身階級を分析したとき、彼らは統一教会の会員よりもはるかに中産階級に偏っている割合が高いという結果が出た。(つまり、入会者よりも非入会者の方が非肉体労働者の父親を持つ者が多かった)。私が疑問に思ったのは、中産階級の若者は特に修練会に参加する心構えがあるにもかかわらず、他の人よりもムーニーになる傾向が少ないのはなぜか、ということであった。いくつかのもっともらしい仮説が思い浮かんだが、データーをさらに詳しく分析すると、私は間違った質問をしていたか、少なくとも間違った仮定の下でアプローチしていたことを示唆するような、2つの興味深いパターンが表れてきた。第一に、ムーニーよりも非入会者の方が中産階級の出身者が多いけれども、非入会者の父親は、下流中産階級の職業(例えば、決められた事務作業など)に就いている傾向が強かった。一方、ムーニーの両親は、上流労働者階級の中で高度な技術を要する仕事や責任ある仕事(例えば、現場監督)に就いている傾向が強かった。第二に、職業の「水平分析」(訳注:ここでは「水平分析」とは既成の枠にとらわれず、視点を変えながら問題解決を図る分析法の意味で用いられていると思われる)を行ったところ、ムーニーの両親は非入教者(あるいは対照群)よりも特にお金を稼ぐことを指向している仕事(例えば投資家、株のブローカー、あるいはビジネスマンなど)に就いている傾向が低く、個人あるいは国家に対して義務や奉仕をするといった価値をもった仕事(例えば、前者では医者、看護婦、教師、後者では軍人、警察、植民地での勤務)に就いている傾向が強かった。

ムーニーたちが自分の家庭背景について述べるのを聞くことによって(また、実際に多くの両親と議論することを通して)さらに見えてきた手がかりは、ムーニーが家庭生活の伝統的な価値観、道徳、そして「礼儀」が守られた、伝統的で「立派な」家庭と呼べる家庭の出身者である傾向にあるということである。あるいは少なくとも、そうした価値が守られるべきであると一般的に認められている家庭の出身である。私が話をした何人かの両親(必ずしも全てではない)は、世界に対して「白黒をはっきりさせる」という考え方をしていた。ある父親は私に対して、自分の息子がなぜこのような団体に洗脳されて入会したのか、どうしても理解できないと言った。「私たちはナイジャルを常に正々堂々と生きるように育ててきた。世間の風潮に合わせて曲がってはならないと教えてきた」と彼は語った。私はまた、かなり多くのムーニーが、価値観や基準について長々と議論するというよりは、それらを当然のものとみなす家庭の出身であるという印象を受けた。ある行動は悪で他の行動は善であるということが「当然」と考えられており、それらを「解明する」余地はあまりないのである。意見の不一致は、禁じられていたというよりは想定されていなかった。
(注10)序文の(注7)を見よ。

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