新シリーズ「日本人の死生観と統一原理」「宗教と万物献祭」のお知らせ


2015年3月7日をもって、毎週土曜日にアップしてきた35回シリーズの「神学論争と統一原理の世界」が終了しました。毎週水曜日にアップされている「ムーニーの成り立ち」のシリーズはまだ継続していますが、来週より土曜日の新シリーズが始まります。大きく二つに分けて、「日本人の死生観と統一原理」「宗教と万物献祭」の二つのテーマでお送りしようと思います。

この二つをテーマとして扱う動機となったのは、統一教会に対する代表的な批判の一つである「霊感商法」について、どのように説明するかという問いかけです。具体的には、以下のような言葉にどう答えるかということですが、これはある女性信徒の父親が娘に対して送ってきた手紙の中に書かれていたものです。「統一教会は、サタンの讒訴だ、蕩減が重いだのと信者を散々脅して、多額の献金を要求し、時に霊感商法をさせ、時に霊感商法の犠牲者となり、信者の身ぐるみを剥がしてしまう」「統一教会は、信者に霊界を信じさせ、神(教祖)に逆らったら霊界で恐ろしいことになると脅しをかけて献金させる」「世の中では、献金や霊感商法のような金の絡んだ活動を犯罪的、反社会的と非難している」

一方、「霊感商法」とは何かということに関する政府の公的答弁の代表的なものが、1987年5月21日の国会答弁で、衆議院物価問題等に関する特別委員会での警察庁刑事局保安部・上野春男生活経済課長の発言です。それによれば、霊感商法とは「人に死後あるいは将来のことについて、あることないことを申し向けて、その人に不安をあおりたて、その不安につけ込み、普通の人だったら買わないようなものを、不当に高価な値段で売りつける商法…人の不安をかき立ててその弱みにつけ込むという意味で大変悪質なもの」。これが、日本政府の定義する「霊感商法」のようです。

紀藤正樹著『マインド・コントロール』(アスコム、2012年)の中に「第2章『霊感商法』のマインド・コントロール」という独立した一章が設けられているように、この「霊感商法」もマインド・コントロールの一種としてとらえられているようです。その意味でも、このブログで「霊感商法」について扱うことは意味あることと思われます。

「霊感商法」という言葉を扱うとき、いくつかの論点整理が必要です。その第一のポイントが、「宗教なのか商売なのか?」という問題です。「霊感」は宗教的用語であり、「商法」は商売を表す言葉ですが。この二つをごちゃまぜにすることによって混乱が生じています。もしこれが商売であれば、商法(商法総則、会社法、商行為法、etc.)に服すべきですが、統一教会は宗教法人であり、収益事業を行っていません。逆にこれが宗教行為であれば、多くの部分が「信教の自由」によって保護されます。(ただし、宗教行為といえども「社会的相当性」は評価されます)。難しいのは、宗教的動機に基づいた商行為である場合にはどうかということですが、この場合には外形的に「商行為」であれば、「信教の自由」を主張することは難しいでしょう。こうしたことを個々の事例においてしっかりと検証していかなければ結論を出すことはできません。

次に、「宗教団体が、神、霊界、サタン、罪、地獄、蕩減、因縁などの教えを説くのは違法か?」という問題があります。この答えは明白です。憲法第20条で「信教の自由」が保障されているので、こうした言説を説くこと自体に違法性は全くありません。また、これらの宗教的概念の正しさを証明する義務も、宗教団体にはありません。さらに、政教分離原則により、宗教的信念の真偽や是非を国家が判断することは禁止されているので、こうした言説が間違っていると裁判所が判断することもできません。現実問題として、もしこうした教えを説くことが違法なら、ほとんどの宗教は存在できないでしょう。ただし、統一教会では神、霊界、サタン、罪、地獄、蕩減などの概念は教えていますが、原理講論には「先祖の因縁」という言葉は存在しません。

次に、「宗教団体が信者から献金を募るのは違法か?」という問題があります。これに対する答えも明白です。そもそも宗教団体は信者からの献金によって成り立っているので、これを否定したら宗教団体は存在することができません。伝統宗教でも献金は義務であり美徳であると教えられています。例えば、神道の賽銭は「祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭」という意味があり、「賽」とは神から受けた福に感謝して祭るという意味があります。仏教の「布施」の中には「財施」という概念があり、これは金銭や衣服食料などの財を施すことを言います。キリスト教の献金は、収入の十分の一を捧げることが伝統になっていますし、イスラム教においても喜捨(ザカート)が重要な信仰実践として位置づけられています。すなわち、献金そのものに違法性はありません。

さて、上記の二つを組み合わせたものが、「宗教団体の信者が罪や霊界について語って献金を勧める行為は違法か?」という問いになります。これも原則としては信教の自由が保障する範囲内であり、一般的には合法と言えますが、実際の裁判においては、献金を勧めるときのやり方や捧げた金額などの「社会的相当性」が問われ、民法上の不法行為と判断されることもあります。この点に関して、過去の民事訴訟において統一教会の法的責任が認められたケースがあったため、2009年3月25日の徳野会長による教会員に対するコンプライアンスの指導の中で、以下のような注意がなされるようになったわけです。

①献金と先祖の因縁等を殊更に結びつけた献金奨励・勧誘行為をしない。

②霊能力に長けていると言われる人物をして、その霊能力を用いた献金の奨励・勧誘行為をさせない。

③信者への献金の奨励・勧誘行為はあくまでも信者本人の信仰に基づく自主性及び自由意思を尊重し、信者の経済状態に比して過度な献金とならないよう、十分配慮する。

④献金は、統一原理を学んだ者から、献金先が統一教会であることを明示して受け取る。

要するに、献金を勧誘する際には、その目的をきちんと開示し、「威迫・困惑」や「不実告知」はダメですよという意味です。統一教会は現在、自ら定めたこのルールを守るために努力しているところであると言えるでしょう。

しかし、「献金の額に限度や『社会的相当性』はあるか?」という問いかけは、一般論としてはかなり難しい問題をはらんでいます。その一例が、「イオン布施目安提示事件」です。2010年5月に大手流通のイオンが、自社カード会員向けの葬儀紹介サービスにおいて「布施の価格目安」を打ち出しました。これに対し、8宗派、約600の日本国内の寺院の協力が得られた一方で、全日本仏教会などの一部の仏教団体は「布施に定価はない」「企業による宗教行為への介入だ」と反発しました。この施策に対しては、「消費者の立場からすれば明瞭な布施価格の明示はありがたい」との評価と、「今後これが『定価』として一人歩きしてしまう」と懸念する意見がありました。その後、2010年9月10日にイオンは「布施の考え方にはさまざまなものがある」として、この布施の価格目安をサイトから削除しました。布施や献金の「妥当な金額」を決めるのはやはり難しいようです。

こうした問題を考える上では、「宗教的価値観」と「世俗的価値観」という二つの異なる価値観が対決することになります。それは以下のような対立構造を持っています。

 

宗教的価値観 世俗的価値観
神や霊界は存在する 神や霊界は幻想
人間には罪がある 犯罪者にしか罪はない
献金は善である 献金は宗教団体の搾取
多額の献金も当然 多額の献金は暴利
神のために献身的に働くことは美徳である 宗教団体に唯働きさせられるのは人権侵害だ
宗教的価値観や行動を世俗の法では裁けない 宗教的行動といえども、世俗の法に服する

 

実際の裁判の場では、統一教会は宗教的価値観に基づき、「御言葉に感動し、神の摂理と世界平和のために全財産に近い献金をしようと短期間で決意することは十分にありえるし、実際にあった。献金の多寡を世俗的な価値基準で判断すべきではない」と主張することになります。一方、反対派は世俗的価値観に基づき、「出会って短期間のうちに全財産に近い献金を捧げるというのは、因縁や地獄の話によって脅されて献金を決意したとしか考えられない。宗教的献金にも『社会的相当性』の範囲がある」と主張することになります。裁判官はどうしても「世俗の価値観」に基づいて判断しますので、反対派の主張を認めてしまうという傾向があるのです。

さて、以上の論点をまとめますと、「霊感商法」の問題は要するに「あの世や死後の世界」の問題と、「献金やお布施」の問題に集約されることが分かるでしょう。そこで次回より、「来世および死生観」の問題と、「宗教における献金やお布施の意義」の問題について、深く掘り下げて論じてみたいと思います。よろしくお付き合いください。

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