第2章 統一教会:その歴史的背景(6)
崔のリーダーシップの下で、カリフォルニアの運動は成長し始めた――最初はゆっくりと、しかし1967年の終わりまでには、もともとの8人の共同体(日本の運動に携わった林年洙オンニを含む、厳選された宣教師のエリート集団から成っていた)は、8人の新しいアメリカ人メンバーが加わって二倍になった。それは、1971年まで毎年継続的に会員を二倍にした(注89)。1970年までに、その集団は25万ドルの予算で運営されていた(注90)。
崔が共同体の発展の次の段階を公表したのは、1970年のことだった。
「これから我々は、カリストガにある我々の土地を基盤として、国際的な理想都市を実現するためのプロジェクトを拡大する・・・我々はもっと多くのより良い土地を探す・・・。その後、我々は拡大し、我々自身の都市、我々自身の銀行、通貨、我々のすべてのものを造るのだ。我々は実験する。もし我々が理想の都市システムを確立することができれば、全世界を勝ち取ることができるだろう」(注91)。
その政治原理は「聖なる民主主義」の一つであるはずだった。そこには社会福祉つきの自由な事業があるはずだった。自由とは、「万人にとって建設的で有益な真理の下でのみ許される」はずだった(注92)。次の三年間のために三段階の建設事業が計画され、事業はカリフォルニア州メンドシノ郡ブーンビルにある600エーカーの土地で、熱狂的に始まった。しかしながら、およそ6カ月後に、建築と改善事業は停止し、ブーンビルの敷地は「国際理想都市」ではなく、フェスティバルと修練会のための場所となった(注93)。
1970年代初めに、崔氏のグループは成長し続けた。それはもはや、自身を特定地域の運動とはみなしていなかった。再教育センターは、国際再教育財団(IRF)になった(注94)。それは多くの小さな企業を発展させ、一連のバンケットを主催して地元の著名人たちを招待した(注95)。「世界開拓アカデミー」が、サンフランシスコのページ通りにある立派な本部で設立された(注96)。そして1971年には、連邦政府の兵役代替役務プログラムがその財団を、「良心的兵役拒否者の召集に対して容認し得る兵役代替役務」として承認した(注97)。共同体の中で「家組織」がそれぞれの代表をもつ12の別々の部局へと増殖した(注98)。崔の集団は、もはや一つの家族ではなく、一つの組織となった(注99)。
この時までに、崔氏の「国際再教育財団」と同様に、ミス・キムの「統一家庭」と、デヴィッド・キムの「統一信仰社」があった(注100)。それぞれのグループは独自のニューズレター、独自のメンバー、独自の原理解釈をもっており(注101)、ミス・キムは霊的あるいは形而上学的、崔氏はユートピア的、キム氏は超教派的(彼は特に「原理」の中の全宗教の統一に熱中していた)な側面を強調した(注102)。 ミス・キムの「統一家庭」(1971年に統一教会になった)はワシントンを基盤としていたが、多くの他の都市にセンターをもち、最も成功したものはカリフォルニア州バークレーにあった。ミス・キムのもともとのベイエリア・グループのメンバーの一人を住まわせた一部屋のアパートから始まったこのセンターは、1970年の終わりまでには3軒の家と、40人のメンバーをもっていた。ミス・キムが改宗させ、ワシントンから送られたプリンストン大学卒業生は、バークレーにある「統一家庭」について次のように書いた。「我々はただ何時間もの伝道と教育と多くの断食を行い、それはとても興奮するものだった」(注103)。ワシントンでも、「伝道」(改宗者を獲得する試み)に対する集中があった。「伝道キャプテン」はメンバーたちを「伝道バス」に乗せ、キャンパス、コインランドリー、国立動物園、空港への「伝道ベンチャー」に連れて行った(注104)。
1960年代後期までは、アメリカにおける運動は政治に対して積極的な関心を示していなかったが、反共活動がしばらくの間、韓国と日本で重要な役割を演じ(注105)、ミス・キムのグループが1969年の夏に「自由指導者財団」(FLF)を設立したのは、部分的には、そこにある教会との繋がりをつくり出すためだった(注106)。FLFが公にした主要目的は、「共産主義との闘争において自由の大義を促進するために必要なリーダーシップの基準を策定すること」だった(注107)。最初のFLF活動の一つは、ベトナムの自由のために三日断食を企画することだった。これによって、リチャード・ニクソンから感謝の電報を受け取ることになった(注108)。グループが関わるようになった反共活動のすべてに対してメンバー全員が喜んだわけではなかった(いまなお喜んでいない者もいる)(注109)。後にFLFは「フレーザー委員会」の調査を受けることになった(注110)。統一教会に反対して(ムーニーたちによれば間違って)(注111)証言した主な証人の一人はアレン・テイト・ウッドであり、彼は1970年代初期に、短期間FLFを担当していた。著書『ムーンストラック』において、彼は次のように書いている。
「センターでの生活は、性とお金以外はすべてにおいて共有だった・・・ワシントン・センターは忙しく、事務的で、仕事は宗教と政治の二つの前線で進行した・・・ ここで私の政治教育が始まった。確かな事実は、文師は徹底的なタカ派であり、ベトナム戦争とアメリカの軍事介入を全面的に支持していたということだった(注112)。」
(注89)同書、106-7, 109ページ。
(注90)同書、125ページ。
(注91)同書、126ページ。崔翔翊「家庭集会でパパさんが話す」、『エポック・メイカー』21号、1970年から引用されている。
(注92)同書、129ページ。
(注93)同書、131ページ。
(注94)同書、132ページ。
(注95)同書、132-3, 139ページ。
(注96)同書、136ページ以下。
(注97)同書、142ページ。
(注98)同書、133ページ。
(注99)同書、134ページ。
(注100)同書、175ページ。
(注101)同書、145ページ。
(注102)同書、190ページ。
(注103)同書、155ページ。フェアリー・ジョーンズ「フィールド・ワーク」統一神学校における講義、1978年2月23日からの引用。
(注104)同書、156ページ。
(注105)マチャック『統一主義』27ページ。
(注106)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」160ページ。
(注107)自由指導財団、日付なし。
(注108)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」161ページ。
(注109)同書、160, 187ページ。
(注110)D・フレーザー『韓米関係調査』319ページ以下。世界基督教統一神霊協会『文鮮明師と統一教会員に関する韓米関係調査についての1978年10月31日付の報告書に対する我々の返答』ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1979年、48ページ以下。
(注111)世界基督教統一神霊協会『我々の返答』51ページ。
(注112)A・T・ウッドとジャック・ヴィテック『ムーンストラック:あるカルトでの生活回顧録』ニューヨーク、モロウ、1979年、86ページ。