アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳64


第8章 被暗示性(1)

第5章での議論が恐らく明らかにしたように、私は社会学者として、社会的な環境が人々の行動に影響を与える上で非常に重要な役割を果たしていると信じている。ある一つの社会的状況にいる人々は、別の社会的状況にいる人々とは非常に異なった行動をするだろう。さらに、異なる社会環境「出身の」人々は、同じ社会的環境に置かれたとしても異なった反応をするだろう。しかしながら、いったんこのことを認めたとしても、われわれはまだ、「どの」環境の影響がある特定の時に働くかを決定する、という問題を抱えている。

さてここで少し、われわれの選択の定義に話を戻そう。私が示したように、「人は二つかそれ以上の可能な選択肢の存在が予想できるとき、それらの中から決定を下す能動的な行為者であり、またそうする際に、彼は以前の経験と以前に形成された価値観を利用して判断を下すのである」(137ページ参照)。このことから私は、ある人が選択をしたかどうかを判断したいのであれば、以下の4つの変数を考慮しなければならないだろうと論じた:(1)当該の個人、(2)と(3)の選択肢(この場合は、統一教会に入会するか外に留まるかである)、そして(4)決定に達したときの社会的状況である。

これまで私は、ある人がムーニーになるかならないかを決める上で社会的状況が唯一の重要な変数であると示唆することは、全く検証に耐えないと主張してきた。統一教会の修練会に対する高い拒絶率と極めて多様な反応は、直接的な状況に「持ち込まれた」変数の重要性を示している。それにも関わらず、次の可能性はある。つまり、修練会の説得的なテクニックは、大部分の人々の選択を妨げるほどのものではないけれども、そのテクニックは「決定を下す能動的な行為者である」ための能力が、「既に」非常に限定されている個人の弱みに付け込むことができるということである。そこでこの章は、私が「心理的な感受性」と名付ける状況に主に関わっているが、同時に「社会からの逃避」という状況にもある程度は関わっている。だがまず最初に、これらと表4で示した最後の二つの状況との違いを明確にしよう。

情報提供か説得か?
統一教会の修練会は、事実上、二つの主要な機能を持っている。一つは(ムーニーたちが強調するもので)情報を提供することであり、もう一つは(反対する人々が強調するもので)説得することである。われわれがある差異(ムーニーになる者もいれば、ならない者もいるのはなぜなのか)について説明しなければならないのであれば、われわれはここで入教者が持ってくるものが著しく高い「説得に対する感受性」なのか、あるいは著しく高い「情報に対する感受性」なのかを問うことができる。すなわち、人々がムーニーになるのは、(1)彼らが非入教者よりも暗示にかかりやすいから(そしてそのような社会環境では実際どんなものにでも加入するだろう)なのか、それとも(2)統一教会が彼らに提示する選択肢により魅力を感じたからなのか、ということである。

もちろん、この違いは理論上のものでしかない。統一教会の信仰や実践がどのようなものであっても入会する人は若干いるだろうし、『原理講論』を自分で何ヶ月も研究した後に入教した者たちもいる。しかし大多数のムーニーは、その信条と環境が持つ説得力の両方が組み合わさって影響を受けたと思われる。それではわれわれは、ムーニーたちが修練会に持ってきた可能性が最も高いのはいかなる感受性であるのかを、いかにして解明することができるであろうか?

すでに示してきた理由により、われわれがこの特定の質問に対する答えを見つけたいのであれば、個々のムーニーあるいは非入教者の意見に頼ることはできない。また修練会に対する彼らの主観的な反応に頼ることもできない。われわれはまた、「ジョナサンはムーニーになったのだから、彼はとりわけ暗示を受けやすいに違いない」といった「前後即因果の誤謬」を含んだ発言は、「彼はムーニーになったのだから、洗脳されたに違いない」という発言と同じくらいに、論点を先取りしているということを認識しなければならない。最初の発言は、ジョナサンの感受性が必ずしも普遍的ではないことを単に認めたに過ぎず、にもかかわらず、いかなる独立した証拠もなしに、統一教会の選択肢が他のものよりも魅力的であるとジョナサンが感じた可能性、および彼が情報に基づいて、自由な(能動的な)選択をして入教したという可能性を否定しているのである。

二つの変数(統一教会の選択肢の魅力と社会環境の説得力)の相対的な強さを評価しようと試みる方法の一つは、次のような実験をすることだろう。つまり、ある対照群が統一教会型の修練会で非統一教会のさまざまな信条を提示され、また別の対照群が、例えば、カトリック、学者、軍隊、友人や親類によってコントロールされた環境、あるいは全く何者にもコントロールされていない環境の中で、統一教会の信条を提示されることである。しかし、それが直面するであろうほとんど克服しがたい方法論的な問題はさておき、そのような人工的な実験があまり役に立つとは思わない。なぜなら、そのような区別は分析上のものに過ぎず、理論の上でのみ可能だからである。実際は、この二つの要因が「一緒に」働いて回心をもたらすのではないかと思われる。ムーニーの候補者が、統一教会の選択肢には何か価値あるものがある、すなわち信条が実際に機能すると納得するのは、その信条が統一教会の環境の中で効力を発揮しているのを見るから、あるいは見たと信じるからなのである。

それでは、実証的研究によって、これよりもさらに一歩進んで、おそらくかなり明確な立場にまでわれわれが到達することは可能であろうか? 私は可能であると信じる。私が試みたのは、以下の二つをできるだけ明確に区別することであった。一つは、「修練会とその最終的な結果のどちらからも独立した基準」として、人が説得「そのもの」にとりわけ影響を受けやすいことを示唆するような特徴と経験である。もう一つは、人が統一教会が提示していると思われるような種類の選択肢を特に受け入れやすいことを示唆するような特徴と経験である。

先の議論を考慮すると、ムーニーがこれらの次元の感受性のどちらかにとりわけ影響を受けやすいのか、それとも両方なのか、その程度を発見したいのであれば、ムーニーだけを分離して見てはならない。なぜなら、ほぼ誰もが、これら両方の特徴をある程度は示すであろうし、またわれわれは、特定の個人において、ある特徴とその対をなす他の特徴との相対的なバランスを評価する手段を持ち合わせていないからである。われわれには、ジョナサンが愛の爆撃に抵抗できないということが、世界を復帰する上で積極的な役割を演じたいという彼の願望よりも、より決定的であるかないかを判断することはできない。われわれは、ムーニーが他の人々よりも、能動的あるいは受動的な説得の影響を受けやすいか否かを発見する必要がある。したがって私の仕事は、両方の次元で、ムーニーと非ムーニーを比較することであった。後者のグループはさらに非入教者、対照群、そして一般住民のサブ・グループに分けられた。さらに「離教者」であるが、彼らは特に興味深いデータを示すことが明らかになった。しかし、このデータに取り掛かる前に、私が説得に対する能動的な感受性と受動的な感受性との間に引いた違いについて、さらに詳しく述べることにする。

「受動的な感受性のある人」とは、恐らくわれわれが無力であるとか哀れであると思うような人であり、全く人生に対処することのできないような人のことである。彼はあまり頭が良くないかもしれないし、あるいは不快でトラウマになるような経験に苦しんだかもしれない。その人が置かれている環境によって、容易に軽い犯罪に走ったり、麻薬をやったり、パンク・ロックをやってみたり、ハレ・クリシュナ運動や、新生派のキリスト教に入ったりするだろう。一つの「シーン」から別のシーンへと変化するときに彼が経験する動機は、「否定的な」ものである傾向があるだろう。その変化は、肯定的な「魅力を感じて」というよりも「何かから逃れる」というものであろう。

対照的に、「能動的な感受性のある人」は、普通は無能であるとか哀れであるとは考えられていないであろう。彼は「探求者」という一般的な範疇に入り、自分がやりたいことが具体的になんであるかをはっきりと自覚してはいないであろう。しかし、彼の性格とこれまでの経験によって、彼は特定の種類の影響を受けやすくなっており、限られた範囲の選択肢のみを受け入れようとするであろう。彼は放浪することはなさそうであり、また既に持っているものから逃避するためだけに生き方を変えるよう説得されることはなさそうである。しかし、「まさに探し求めていた」ものを「肯定的な」やりかたで約束すると思われるニンジンの誘いには乗るかもしれない。

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