日本人の死生観と統一原理シリーズ05


(5)真の死生観を求めて

これまで四回にわたり、日本人の死生観に影響を与えた思想としての古代インドの思想と古代中国の思想、日本固有の死生観、そしてキリスト教の死生観について説明してきました。それぞれ主張する内容に違いはあるものの、人間の生命は肉体の寿命が尽きるとともに完全になくなって無に帰してしまうのではなく、何らかの形で死後も生命が継続すると考えている点では同じであることが分かりました。

死を意識し、それを文化の中に取り込んでいるという点で、人類は特異な生物であると言えます。人間以外の動物には、お葬式も宗教もありません。あらゆる人類文化は、死についてのなんらかの対処法、あるいは死をひとつの問題と見た場合、その解決法と呼べるようなものを提示しています。これらを「文化における死の受容」と呼ぶことができます。具体的には、①死の起源に関する神話、②死後の世界の信仰、③葬送儀礼――などによって人間は「死」と文化的に向き合ってきました。

死を個人の人格の完全な無化とみなし、かつその無化への代償をなんら用意していない文化は存在しません。未開宗教においては、死者の霊を彼岸に導き、その再生をはかろうとする祭祀が行われましたし、普遍宗教においては、天国と地獄、最後の審判、霊魂の輪廻転生などの形で死後の世界が表現されました。

「メメント・モリ」をテーマにしたミヒャエル・ヴォルゲムートの版画『死の舞踏』(1493年)

「メメント・モリ」をテーマにしたミヒャエル・ヴォルゲムートの版画『死の舞踏』(1493年)

このような「死の思想」が最も発達した時代が中世でした。「メメント・モリ(memento mori)」とは、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句で、「死を想え」「死を記憶せよ」などと訳されます。これは13世紀ヨーロッパの托鉢修道会の訓戒であったと同時に、芸術作品のモチーフとして広く使われました。日本では王朝時代末期から鎌倉時代初期にかけて「往生伝」が発達しました。「往生伝」とは、名のある高僧の生涯やその死(往生)の奇跡、無名の修行僧のさまざまな往生のあり方に関する伝記であり、死の準備、死の覚悟、死の方法、死の意識に関する理論と実践の書でした。

しかし現代という時代は、「死のタブー視」が特徴となっています。死の問題を医学や病院の手にゆだねてタブー視する態度は、現代に固有のものです。現代人は、「死」とまともに向き合おうとしないのです。現代医学にとって「死」は敗北であり、それをなんとか先延ばしにしようとして、臨終に際して極めて非人間的な延命措置を行います。これは、臨終の際に家族と別れと惜しむという人間的ドラマを奪い去ってしまいました。現代人は、科学的世界観と物質主義的人生観によって死を単なる物質的終息としてのみとらえるようになり、肯定的な意味を見出しえなくなったのです。その意味で、現代人の死は「最も和解しがたき死、救いなき死」であると言えます。
そもそも、「死とは何か」を定義することは、人生の目的を定義することにつながります。何の為に生きるのかということは結局、何の為に死ねるのかということであり、人生において何を残すかということは結局、死ぬまでに何をすべきかということです。意義のある人生を送ろうと思えば、死を意識せざるを得ないのです。その意味で現代人は、現在の人生と死後の生を結ぶ一貫した原理を必要としていると言えるでしょう。統一原理の死生観はそのような現代人の問いかけに対して説得力のある体系を提供するものであったために、多くの人々が感動して統一教会の信者になったのであり、決して「洗脳」や「マインド・コントロール」の結果として霊界を信じるようになったのではありません。
それではこのシリーズの最後に、「統一原理」が従来の代表的な死生観をどのように批判克服しているかを整理してみましょう。

1.私は唯一無二の価値を持つ個性真理体
旧約聖書の創世記1章4~31節を見れば、神は天地創造の一日を終えるごとに、「良しとされた」と記述されています。これは神が被造世界を「善の対象」、すなわち「喜びの対象」として創造されたことを示しています。すなわち、神が被造世界を創造された目的は喜びを得るためであり、その中でも最高の喜びの対象が、神の子女としての人間でした。そして人間以外の万物は、人間のために準備された環境世界でした。

さて、人間が神にとって最高の喜びの対象であるためには、①唯一無二の存在でなければならず、②永遠性をもった存在でなければなりません。それは、どこにでもあるありふれたものであればいくらでも代替物を見出すことができるので、最高の喜びの対象とは言えず、途中で消えてなくなってしまう存在であれば、喜びではなく逆に悲しみをもたらしてしまうからです。

この二つの条件を満たす被造物が人間です。個性がまったく同じ人間は一人もいないという意味において、完成した人間は唯一無二の価値を持つ存在であると言えます。このことを統一原理では、人間は「個性心理体」であると表現しています。この「個性真理体」であるという観点から、輪廻転生説の問題点を整理してみましょう。

私とは誰であるかということ、すなわち自己のアイデンティティーの根拠となるものが個性です。個性を失ってしまったら、もはや「私」ではありえません。しかし、輪廻転生節においては、私は前世ではAという別の個性を持った存在であり、来世ではBというまた別の個性を持った存在であるということになり、魂の材料が引き継がれるだけで、個性は引き継がれないことになります。私が唯一無二の価値を持つ神の喜びの対象となるためには、唯一無二の個性を持ったまま、永遠の存在でなければならないのです。神の心情と人間の創造目的を中心として考えれば、輪廻転生説は誤りであることが分かります。

2.肉体の復活はあり得ない
古代中国の思想においても、キリスト教の正統信仰においても、肉体の復活を信じていますが、この肉体の復活は古代人の信仰であり、科学的世界観と理性を持った現代人には受け入れられません。現代神学は、人間の肉体が死ぬのは自然の摂理であり、堕落や罪の結果ではないと考える傾向にありますが、これは統一原理の立場と一致します。科学的に考えれば、一度死んだ人間の肉体が復活することはあり得ません。もちろん、死亡宣告を受けた人間が蘇生することはたまにありますが、その人も永遠に生きるわけではありません。もともと神は、地上での肉身生活を有限なものとして創造されたのであり、人間が死ぬのは罪や堕落の結果ではなく、創造原理的な根拠によるものです。

3.霊界は神が創造された世界である
そもそも神は、人間を霊と肉の両側面をもつ存在として創造されました。そして、肉身の住む世界として地上界を、霊人体の住む世界として霊界を創造されたのです。神は肉身生活を有限なものとして創造され、地上での生を終えた人間の霊が永遠に住む世界として霊界を創造されたので、霊界の存在には創造原理的な根拠があるのです。

輪廻転生説やキリスト教の復活信仰が考えるように、霊界は魂が次の生に転生するまでの期間や、肉体の復活を待つまでの期間を一時的に過ごすだけの「待機所」なのではなく、人間の魂の永遠の住処としての積極的な意味を持った世界なのです。

4.先祖供養は「偶像崇拝の罪」ではない。
キリスト教は先祖祭祀や先祖供養を「偶像崇拝の罪」として否定しましたが、統一原理は血統の重要性を説くために、先祖供養に積極的な意義を見いだします。統一原理は家庭を大切にする思想であり、特に親子関係を重要視します。親孝行の道理の延長線上に、祖父母を大切にする思いがあり、先祖に対する畏敬と感謝の思いがあるのです。いまの自分があるのは親と先祖のおかげであると思えば、先祖に対する感謝の念を忘れないようにしなければなりません。その意味で先祖を供養することは「偶像崇拝の罪」どころか、素晴らしい美徳であると言えます。

しかし、私たちの先祖は同時に罪の血統を引き継いだ堕落人間でもあるため、先祖は自分に守護や恩恵をもたらすと同時に、悪しき因縁や罪業をももたらす存在でもあります。ですから、先祖をやみくもに神格化することも原理的に正しい信仰とは言えません。その意味で私たちは先祖を「崇拝」するのではなく、供養し、解放する存在であるととらえる必要があります。

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