アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳35


第4章  ムーニーと出会う(5)

どのようなスタイルであっても、講師は原理をオウム返しに暗唱すべき教義信条としてではなく、証しすべき生きた信仰として受け入れていることは明らかであると思われる。信仰体系が各講師の人格と統合しているということは、質問が出れば、ある程度まで講師は解答を示し問題に対処することができるということを意味する。全般的に言って、質問には答えが示される(事実、質問は歓迎されているようだ)。だが新しい内容が明かされる前に受講者が十分に準備されているように、神学的内容の開示は慎重にコントロールされている。さらに突っ込んだ疑問は、次のような励ましを込めた反応をもって回避される。「そうです。それは難しい問題です。ですが、次の章を聞けば理解が深まると思います」「それは良い質問です。週末の講義だけでそれに十分答えることはできませんが、後ほど論じることにしましょう。」

原理のある部分は、最初に聞いたときには受け入れられないだろう、とかなり頻繁に警告される。例えば、ある講師は、宇宙論(訳注:ここで“cosmology”は天文学的な宇宙論のことではなく、創造原理の世界観を指すと思われる)の論理に非常に興奮した、頭の固い、分析好きな女性に対しては相当の成功を収めていた。彼は運動における堕落の解釈に移らなければならないとき、認識論的な基準が変わることに対して、次のように言って準備させた。「これからは霊的な事柄を扱うので、簡単ではない。受け入れられないことを聞いても心配することはない。聞きなさい。受け入れようとしなくてもいいが、否定はしないこと。これまでは論理的だったが、いまからは霊的な体験がなければ難しいのだ」。しかし、内容が天使を扱っているのも関わらず、次の部分も同様に論理的で、さらには経験的なやりかたで提示された。霊的な世界と死後の生の実在に対する科学的な証拠があることを示唆していると言われる、あるノーベル賞受賞者の話が引き合いに出された。霊的な体験をした人々はそれを語るように勧められ、かれらは「霊的に開かれている」と言われる。「このような体験をする人が多くなれば、それだけ宗教と科学は接近し、科学は霊的な世界の実在性を理解し始めるだろう」と語られる。

食事と散歩の間、ゲストたちは個々のムーニーたちの証しを聞く。それは、ムーニーたちが最初にどのようにして運動と出会ったのか、それが彼の人生をどのように変えたのか、そして既に成し遂げられたことを見れば如何に驚くべきことであるかを伝える物語で、語るたびごとに洗練されていく。ゲストたちは講義の内容についてどう思うかを親しく尋ねられる。ゲスト同志がお互いに話さないようにするための露骨な試みはなされないし、実際に彼らの多くが内輪でおしゃべりをしている。それは裏口の外で短時間たばこを吸いながらなされることもある。ただし、比較的少人数であることと、ゲストに対してメンバーの比率が高いということ(通常は少なくとも1対1)は、ムーニーが会話の大部分を占める傾向があるということを意味している。

週末が終わりに近づくと、ゲストたちは『原理講論』をもっと詳しく勉強したいかと質問される。彼らは7日間の修練会について知らされ、そこではこの2日間という短い期間では学びきれない、運動における信仰と生活についてのもっと完全な理解が得られると約束される。表5(146ページ)からわかるように、ゲストの3分の2以上がこの申し出を受け入れないが、中には受け入れる者もいる。間髪入れずに参加する者もいるし、1週間後に行く者、あるいは休暇が取れたり必要な準備ができた時点で参加する者もいる。

キャンプKでの週末(注14)

キャンプKでの修練会はイギリスでの修練会とある面で似通っているが、しかしそれはカリフォルニアで行われるものであり、2カ所の修練会の違いに気付くのは難しくない。その違いは統一教会というよりもカリフォルニアの文化(および気候)と関連したものだ。カリフォルニアの修練会(通常はセミナーと呼ばれることが多い)の規模は、イギリスのものよりはるかに大きい。週末の修練会に参加するのは約100人であり、そのうち半数以上が会員であろう。ゲストたちはベイ・エリアのセンターから車で北に約2時間かけてヒールズバーグ近くのキャンプKに連れて来られる。到着したときにはもうまわりが暗くなっていることもあり、周囲の状況について知ることができるのは翌朝になってからである。木の茂った丘陵に7つの建物が点在するそのキャンプは、幹線道路からも見えるが、道路とは小川によって隔てられており、そこには木の橋が架けられている。(別の修練会が行われているブーンビルに行くには、さらにこの道路を北方に進んでいく(注15)。それも美しい田園地帯にあり、サンフランシスコから約100マイル離れている。ブーンビル郊外の主要道路から歩いて5分から10分の所にある二つの大きなハウス・トレーラー(移動住宅)にゲストは滞在する)

ゲストはムーニーを含めて約15人と部屋を共有することになる。ラッキーな者は、やや薄汚いマットレスをなんとか確保して、その上に寝袋を敷くことができる。ここでも男女の寝室や浴室ははっきりと区別されているが、異性間で(完全にプラトニックなものだが)抱き合ったり握手したりといった形での身体的接触は頻繁に行われる。講義の間(眠らないようにするため)や夜(おそらく眠りにつきやすくするため)ゲストたちは背中や肩をマッサージしてもらったりする。私は熟練したマッサージを若い女性から受けたが、その間に彼女は、自分の母親がアメリカで最も活発な反統一教会の活動家であること、そして母親が自分をディプログラミングしようとしたときの体験を語ってくれた。

午前7時頃になるとスピーカーから歌が流れてきて、ゲストたちは起こされる。メンバーたちはすでに起床しており、朝食を準備している(私たちが食べたのはチーズ、レタスにマヨネーズをかけたサンドイッチ、そしてオレンジジュースだった)。しかし食事の前に、ゲストたちは丘陵の上にある空き地に上って、約45分間の厳しい運動をするよう求められる。ドラッグはいっさい差し控えるよう要請される。12人程度のグループに分けられるが、おそらくそのうちの5~6人がゲストだろう。週末の間に各グループのメンバーは互いによく知り合うようになる。食事を一緒にとり、決められた場所で集まる。大きなホールに全員が集まって参加する講義の間は、グループは一緒の場所に座る(ゲストとゲストの間にはムーニーが入って座る)。

講義は第3章で既に述べた概略に従って進む。講師紹介のくだりは、寄席演芸のスターが登場する場面を思い起こさせた。講師が司会者によって紹介され、歌あり、バンドありの大騒ぎをして、熱狂的な関心を高めていく。講義の間に居眠りをする者がいると、隣の者から脇腹をつつかれることになる。そして大丈夫か、と気配りに満ちたささやきで尋ねられる。

講義が終わる度ごとに聴衆は解散するが、それぞれのグループごとに集まる。グループごとの集まりでも、(私の鼓膜にとっては安心なことに)ギターの伴奏だけで歌を歌う。参加者は全員が自己紹介し、どのようにして運動と出会ったのかを「語って共有」するよう勧められる。お互いの気持ちを互いに語り合うことは、カリフォルニアでは(統一教会の修練会に限らず)よく行われることである。ヨーロッパの人間、あるいは南部、中西部、東部のアメリカ人にとっても、次々と明らかになる「シリアル・ドラマ」(注16)を自分の順番が来るまで座って待っているというのは、落ち着かないものだ。しかし、大部分の参加者は、先に発言した人物(通常はムーニー)の例にならって話をするものだ。そして1、2回の集まりの後には、彼らは自分の人生に関する一般的な事柄(どこで生まれたか、大学で何を学んだか)だけではなく、自分の抱えている問題や、自身のより個人的な希望や恐れなどをも明らかにするようになる。グループのメンバーはまた、前夜見た夢がどんな内容のものだったかを自発的に述べるように求められ、リーダーがその夢の解釈をしたりする。

プログラムの厳しい統制にもかかわらず(あるいは、それ故にかもしれないが)、全体的な雰囲気は、個々のゲストの積極的な参加を促しているように見える。通常は会話に積極的に参加することが称賛され、ゲストの発言に対してグループで拍手喝采する場合もある。議論が収拾のつかない方向に進んでいく危険があるときには、議論を止める合図として拍手をすることもある。それは「チュー、チュー、チュー、ヤー、ヤー、ポウ!」(注17)という奇妙な呪文であることもあり、集会の終わりに参加者が手をつないで輪を作っているときにときどき出てくる。週末も終わりに近づくと、さらなる「自発的な」反応として、次のような歌を急に歌いだすようになる:

私たちはあなたを愛しています、アイリーン(またはジョナサン、デーブ、ジェーン)、
 誰よりも愛しています、
 去っていかないで欲しい
 本気で言ってるんだ!

(注14)キャンプKでの週末修練会はブーンビルで開かれているものとほぼ同じである。この記述は私自身の体験から描き出したものだが、同様の記述が以下の文献および背教者によって書かれたいくつかの書物にも見られる。デヴィッド・タイラー「社会的に組織化された成果としての統一教会への入会」修士論文、モンタナ大学、1978年。テーラー『新しい人になる』、D.G.ブロームリーとA.D.シュウプJr「アメリカのムーニー:カルト、教会、および十字軍」ベバリーヒルズ・ロンドン、セージ出版、1979年。
(注15)ハイウエー128号線
(注16)こう呼ばれるのは、シリアル(cereal)を食べているときに証が行われるから。この言葉を最初に聞いたときは、証が一つのグループから次のグループへと連続して行くことから、「連続ドラマ(serial drama)」であると思った。
(注17)この歌の起源と意味についてはいくつかの説がある。一つは、ダースト夫人がこれを最初に歌い始めたとし、それは「まっすぐで狭い道」を進んでいる列車のことを言っているか、または、子供向けの物語の中で、急な坂道を上っていくときに「私にはできるんだ」と息を切らして言っている、というものである。

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