日本人の死生観と統一原理シリーズ03


(3)日本古来の死生観と仏教の日本化

これまで二回にわたり、日本人の死生観に大きな影響を与えた外来思想である古代インドの思想と古代中国の思想について説明をしてきました。今回は、そうした思想が輸入される以前の日本固有の死生観と、それによって仏教の死生観がどのような影響を受けたかを扱います。

1.「祟り」と「先祖祭祀」
東北アジアの一地域である日本も、先回説明したような古代儒教の思想と同じ土壌に立っているものと考えられます。日本神道の特徴として「禊」と「祓い」があり、日本人の宗教性の最大の特色に、水に対するとらえ方があると言われています。

禊ぎと祓い

祓い
禊ぎと祓い

日本列島と神々が「禊祓い」によって水から生まれたという神話に代表されるように、「神と人の生命が水から誕生するという生命観」と、「水がすべてを洗い流す」という清浄観があるのです。日本人は「穢れ」を諸悪の根源として極度に嫌い、「禊」と「祓い」によって穢れを取り除かなければならないという観念をもっています。
禊の始まりは、以下のような『古事記』の伝承であるとされています。

神代正語常磐草(文政10年刊、中臣光久、吉野屋仁兵衛版)

神代正語常磐草(文政10年刊、中臣光久、吉野屋仁兵衛版)

伊邪那岐が妻に会いたい一心で、黄泉の国にいる伊邪那美を訪ねるが、妻はすでに黄泉の住人となっていた。体にうじがたかり、各所に雷神がとぐろを巻いており、伊邪那岐は怖くなって逃げ出すが、伊邪那美は「よくも恥をかかせたわね」と後を追ってくる。命からがら逃げ帰った伊邪那岐は、体についた穢れを清めるために、筑紫・日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あぎはら)で、海水につかって身を洗い清めたという。

古代の日本人は死を忌み穢れたものとしてとらえ、特に異常な死を遂げた者の祟りを恐れました。したがって、仏教を知る以前の日本人は、死者の扱いについて、ほぼ忌避に終始したと思われます。
中国で儒教の影響を受け、変容を遂げた仏教が伝来することで、日本は、古代儒教の死生観と日本独特の清浄観を土台にして、その死生観を発展させていきます。中国経由の仏教と出合うことで、いかなる死に方をした死者も、祀れば恐ろしくないことを学び、「先祖祭祀」を行うようになったのです。

日本の祖先崇拝は、以下のような四つの特徴を持っています。
①死んだ祖先の霊を「カミ」(神、上)として崇め、最高位におく信仰。
一定の年月を経過して死の穢れがなくなり、浄化した祖先たちの御霊を「祖霊」と呼びます。
②祖先霊が子孫の祀りを受けるために「あの世」と「この世」を往来する。
③祀りは、生者と死者(死んだ祖先)の交流儀式であると考える。
④祀りの結果、祖先は子孫に祝福を与え、守護する存在になると考える。

2.祖霊信仰と習合した日本の仏教
仏教が伝来する以前の日本の他界観は、輪廻説とは全く異なるものでした。日本には古来より霊魂不滅の信仰があり、人間が死ぬとそれはやがて「死霊」から「祖霊」へと昇華していくという信仰がありました。祖霊とはもともと家族や近親者の死後の霊魂のことです。この死霊は死後に故人の霊魂として丁重に葬られますが、あまり時間が経過しないうちは、時として災いを成すものとして恐れられる一面もあります。しかし、時間がたつに従って恐怖の面は薄れ、しだいに家族や一族を守護する神として崇拝されるようになります。これが祖霊であり、個人的な霊魂は一定の時間を経て祖霊の仲間入りをするのです。この祖霊は、いわば一定の時間を経た一族の祖先の霊魂の共同体であり、それが現実に生きる一族を守ってくれると考えられました。

このような「祖霊信仰」が日本の祖先崇拝の基底を成すものですが、日本に仏教が伝来したとき、この祖先崇拝と仏教が習合し、日本独特の仏教形態を発達させることとなりました。これは「仏教が祖先崇拝的に消化された」とも、「祖先崇拝が仏教的に行われるようになった」とも表現することができますが、驚くべきことは多数存在する仏教の宗派のどれも例外なく祖先崇拝と習合したという事実です。これは日本人の宗教性の基底には、祖先に対する敬慕の思いがどれほど強く働いていたかを示すものであると思われます。と同時に、祖先崇拝は「家」という日本の社会を構成する基本単位を維持するためには絶対不可欠な宗教儀礼であったことを考えると、仏教は日本の社会の実状に合うような形で受容されたのである、ととらえることもできます。

しかしこのような受容のされ方は、仏教本来の立場からすれば許されないはずのものです。釈迦の説いたオリジナルの仏教は徹底した個人主義の教えであって、その究極的な目的は輪廻転生を繰り返す迷いの状態から解脱して、個人の安心立命の境地(涅槃)に至るところにあります。したがって、そこには日本の家制度のような特定の社会制度を持続させるのに貢献すべき積極的な要素は全くないはずです。仏教が本来理想とした共同体は家庭でも氏族でもなく、出家した求道者の集団である僧伽(サンガ)であったのであり、むしろ家庭は愛欲煩悩の場として、相対的に否定されるべきものであったとさえ言えるのです。したがって、オリジナルの仏教には、日本の家制度やそれを維持するための祭祀である祖先崇拝を直接支持する要素は存在しないばかりか、むしろ原理的にはこのようなものは否定する傾向がより大きいと言うべきなのです。これは、釈迦の在世当時には出家の僧侶たちが葬送儀礼に関与することが厳しく戒められていたことからも明らかです。

しかし、それが日本に土着化する過程においては、ことごとく換骨奪胎されていきます。本来、仏教における涅槃(ニルヴァーナ)とは「吹き消される」ことを意味し、それは明智によって煩悩の炎を吹き消し、一切の業因果を離れ、輪廻を解脱することを意味しました。すなわち、これは悟りを開いて仏になることを意味したのであり、人間の生物学的な死を意味するのではありませんでした。

しかし、このような深遠な哲学的概念は素朴な日本人にとって難解であったため、涅槃は「肉体の死」という意味で解されることとなりました。涅槃に入った者はすなわち仏です。したがって人は死ねば「ホトケ」になる。生前の仏教信仰の有無、行為の善悪、人物の器量如何にかかわらず、死者をことごとく「ホトケ」と呼ぶ日本の風習は、「涅槃=死」という日本的な仏教解釈に基づくものです。

祖先崇拝においては、先祖は何ものにもまして尊崇されるべきものです。したがって、仏教における究極の目標である解脱を成し遂げた「仏(ホトケ)」が、先祖と同一視されるのは自然の成り行きでありました。したがって日本の仏教においては「先祖=ホトケ」となり、先祖を祭ることとホトケを供養することが同一視されるようになりました。これは「回向」と呼ばれる仏教概念が、先祖の祭りと習合したためです。もともと仏教における回向は、修行などによって積んだ功徳を他人のために振り向けることを意味したが、これが日本では葬式や法事と結び付いて、施主(喪主)が僧を招いて経を読ませることによって得た功徳を、死者のために振り向けることを回向と解釈したのです。

また日本には年忌と言って、毎年回って来る死者の祥月命日があり、この日に死者供養の仏事が行われます。これには一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌……とあり、通常は三十三回忌をもって一応の区切りをつけ、これを「弔い上げ」といって、それ以後は仏事をすることがほとんどありません。この習俗は日本の祖霊信仰と仏教が複雑に結び付いて発展したものです。すなわち、日本では年忌を重ねるたびに霊は神または仏に近づくと考えられたのであり、三十三回忌をもって死者の霊魂は一家の守護神としての祖霊の仲間入りをする、または完全に成仏するととらえられたのです。

このような背景を知ってみれば、仏教における「因縁」や「因果応報」の考え方が、日本では先祖との関わりの中でとらえられるようになったのは、至極当然のことであったと思われます。現世における業が自分自身の来世において報われるという輪廻の考え方は、多分に個人主義的であると同時に、現世の一時的な人間関係には何らの永続的な価値を見いださないものであるために、血統的なつながりを重要視する日本人にとっては魅力のないものであったかもしれません。したがって祖先の業が子々孫々に受け継がれていくことを「因縁」や「因果応報」ととらえたのも無理からぬことでありました。

しかし先祖は崇拝の対象であり、ホトケでありながら、「先祖の因縁」というと何やら先祖の積んだ悪業が子孫の身に降り掛かってくることであるかのようにとらえられているというのは、明らかに矛盾をはらんでいます。これは日本古来の御霊や怨霊という観念が影響したものと思われます。これらは祟りを成す神のことですが、崇道天皇(早良親王)や菅原道真のように、恨みをもって死んだ者は怨霊になると信じられていました。このような怨霊は、天災や疫病などをもって人々を苦しめると考えられたため、丁重に祀られたのです。したがって恨みをもって死んだ先祖が十分に供養されないうちは、子孫に悪影響を及ぼすという観念が生じたとしても不思議ではありません。

もともと日本には、死霊は祖霊として安定する前段階の存在であり、時として災いをもたらすものであるという観念がありました。したがって、まだ死んで間もない先祖は完全に成仏しておらず、「弔い上げ」をすることによって真のホトケになるのであり、それまではその悪因縁を避けるためによく供養しなければならないという観念が生まれたのも、日本においてはごく自然なことでありました。
このような祖先崇拝と仏教の習合は、徳川幕府がいわゆる寺請制度によって社会の隅々に至るまで寺檀関係を確立させたことによって、一層濃密に庶民の間に普及することとなりました。すなわち寺は檀家にとって葬式、年忌法事、善供養などを行う祖先の祭り場であり、寺僧はそれらを取り仕切る祭司であるという認識が庶民の間に定着していったのです。今日の日本の仏教が「葬式仏教」などと言われ、葬儀や先祖供養と仏教が切っても切れないもののごとく考えられているのは、近世の寺檀制度によって祖先崇拝と仏教の結合が徹底して庶民の間に浸透させられた結果なのです。このような「家」と仏教との結び付き、および寺と檀家との関係は明治維新の後にも生き続け、都市化や人口移動によって脅威にさらされているとはいえ、今日に至るまで生き続けています。そして急激な人口移動によって檀那寺との関係が切れた人々の心の中にさえ、先祖を尊ぶ心や、先祖の因縁という宗教的観念は生き続けているのです。

3.日本人の死生観の問題点
日本人の宗教の最大の特徴は、日本固有のものと外来のものが混ざり合った「習合」状態にあると言えます。これは歴史を通してさまざまな伝統を便宜的に組わせた結果として出来上がった死生観であるため、そこには首尾一貫した明確な世界観がありません。

例えば、もし「輪廻転生」であるなら、自分の前世の因果を受けるという自業自得のはずなのですが、同時に血統的な「先祖の罪」が子孫に降りかかってくることも認め、両者を折衷案的に組み合わせているので、矛盾性を内包しているのです。

しかし日本人は、誕生祝・年始祝は神道、結婚式はキリスト教、葬式は仏教で行っても、何の矛盾も感じないのと同じように、来世に関するさまざまな宗教伝統の教説が雑多に混ざっていても何の矛盾も感じないようです。

カテゴリー: 日本人の死生観と統一原理 パーマリンク