アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳68


第8章 被暗示性(5)

「遅い落ち込み」
回答者たちは、自身の幸福度(およびその他の状況)に対する評価を選択回答方式でより直接的に表現する機会を与えられた(この方法はグループ間の比較と、同じグループのメンバーの経時的な比較を共に容易にした)。自己表現であり、回顧的な記憶であるという限界を認めてもなお、ムーニーの中で不幸な子供時代を過ごしたと主張する人はほとんどいなかったことは興味深い。

table9

【表9】

表9は回答の詳細を示しているが、それはいくつかの変数について浮かび上がった別のパターンの例としても興味深い(これは次の章でさらに議論する予定である)。そのパターンとは、ムーニーは統一教会に出会う直前に「落ち込む」傾向にあるというだけではなく、彼らの多くが対照群よりも人生において「より後の時期に」不幸になり「始めた」ということである。彼らは「非常に幸福」な子供時代から、十代になって「幸福」あるいは「まあまあ」の状態に落ちる傾向があるけれども、運動に出会う6ヶ月前までの期間に不幸であったと答えた入教者は22%に過ぎなかった。そしてその頃(統一教会に出会う6カ月前)までには、3分の1以上が不幸になっていた。これに比べると、対照群の3分の1近くが十代前半に自分たちは不幸だったと述べたが、これは、十代後半、あるいは二十代はじめになると12%に落ちていた。このパターンは、個人の回答を見るときにはより明確に際立ってくる(それはグループ全体がまとめられるときに、いくつかの「落ち込み」が互いに相殺し合うからである)。実際、ムーニーの3分の1は(離脱者と対照群では約5分の1に過ぎない)運動に出会う直前の期間に、この尺度の中で少なくとも1ランクは下がっている(例えば、「幸福」から「まあまあ」というように)。しかしムーニーの15%は、それ以前の期間よりもそのときは実際に幸福だったと語った。離脱者は、より長い期間にわたって不幸で「あり続け」ている傾向が一番強かった。表9から分かるように、不幸な幼少時代を過ごした傾向が最も強いのは、この人々だった。

 

ムーニーと対照群に対して自身の精神的な満足感を評価するように求めたときにも、ほぼ同様のパターンが表れた。ムーニーは運動に出会う時点までは、次第に「落ち込んで行く」傾向にあったが、「現在」(入教以後)の精神的な満足感は平均よりもはるかに良いと主張した。(注13)ムーニーも対照群もともに、人生を通じて、自身が平均的または平均以上の物質的な快適さを享受してきたとみなす傾向にあった。運動に入会した以降においてさえ、ムーニーは依然として彼らの物質的な快適さは「ほぼ平均」(47%)か、あるいは「平均以上」(37%)であるとみなす傾向にあった。
「受動的な被暗示性」というとらえどころのない性格をさらに追求するために、そして私以外の誰かからも長い方のアンケート(注14)に対する回答の一般的な「感触」を拾い上げるために、私は符号化を担当していた2人の研究助手(注15)に、多くの変数に関して回答者を評価するよう依頼した。彼らはムーニーと対照群との間において、友達からの人気、内気さ、孤独感、愛されているという感情、魅力がないという感情、などの特徴において、いかなる顕著な違いをも見つけることはできなかった。しかしながら、個々の回答者に対する全般的な印象において、彼らはムーニーの13%(および対照群の4%)を「やや悲しそうで哀れ」だと分類した。またムーニーの5%(対照群の2%)は、何らかの精神病にかかっていると考えた。彼らはムーニーと対照群の同じ割合(11%)の者を「宗教的な熱狂者」と呼び、ムーニーの4%(対照群の5%)は「独善的でうんざりさせる人物」であり、ムーニーの14%(対照群の9%)は「やや奇妙」であるとした。彼らはまた、ムーニーの10%(対照群の20%)は極めて魅力的な人々であり、会って友達になりたい人だと述べた。その他は、「どこにでもいる隣の男の子・女の子」であると分類した。もちろん、これらは非常に主観的な判断であったが、この研究助手がアンケートの回答にのみ頼っていたことを考えれば、彼らの判断は、私が千人ほどのムーニーとじかに会話した後に下したある種の判断と、不思議なほどに一致したのである。
結論として、私がインタビューや参与観察を通じて引き出したものを含めて、すべての証拠を考慮すると、ごく一部のムーニーは無能と分類できるし、ややそれよりも多い割合の(だが依然として少数の)ムーニーは少し悲しくて哀れであると分類できると思われるが、大部分のムーニーは同年代の人々と比べて、ある人が「受動的な被暗示性」を示しやすいと分類し得るかどうかを評価するための独立した基準を形成するような特徴に関しては、顕著な違いはない。事実、証拠が示唆するところによると、統一教会の修練会という社会的状況におかれた人々の中には、一見したところで対照群よりも「より」危険であると思われるような人々もいたが、こうした人々は実際には「入教しなかった」者たちであるか、あるいは入教したとしても、極めて早く離脱した者たちだったのである。またムーニーの中には、「社会からの逃避」という状況が彼らの入会を説明するもっともらしい理由であると思われるような類の体験をした者たちもいたことは明らかであると思われるが、その体験が同世代の者たちよりも著しく悪かった者は、ごく限られた数しかいなかった。ここでも証拠が示しているのは、修練会に参加した者の中には、対照群の者たちよりもトラウマになるような、あるいは不愉快な体験をしたと思われる一群の人々もいたが、そのような人々は、入教しなかったか、あるいは入教してもすぐに離脱する傾向があった。
だからといって、大多数のムーニーが統一教会に対する「能動的な感受性」となり得るような特定の特徴を持っていない、ということにはならない。次の章において私は、ムーニーたちによって管理された環境にさらされると、統一教会が彼らに提供し得る何か肯定的なものを持っていると、なぜ入教する人々が説得され得るのかを説明するような、いくつかの傾向と社会的経験を描写するであろう。

(注13)統一教会に関する精神的な満足度の概念のさらに詳しい議論としては、アイリン・バーカー「彼に仕えることは完全な自由:英国における文鮮明師の統一教会に関する精神的な満足感の概念」、D・O・モバーグ(編)『精神的満足感』ワシントンDC、ユニバーシティ・プレス・オブ・アメリカ、1979年に掲載、を参照せよ。
(注14)アンケートはムーニーに対しては41ページ、対照群に対して36ページで、その多くが自由回答方式(つまり選択回答方式ではない)であった。
(注15)そのうち一人は、ローマ・カトリックの修道士であり、もう一人は、厳格な非国教徒の背景を持った無信仰者であった。

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