アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳57


第6章 修練会に対する反応(8)

第一章で述べたように、ムーニーたちは時折、私の研究にはほとんど意味がないと言った。というのは、彼らが統一教会にいる本当の理由は、神あるいは霊界がそこに導いたからだというのである。宗教的な回心を体験したという人々が、実際に、通常ではない体験をしたという主張に対して私は疑問を抱くものではない。しかしながら、大多数の会員たちが主張するように、こうした体験を引き起こし、彼らの人生を「導いた」のがはたして神であったかどうかを、私には知る術がない。しかし私が指摘したいのは、ムーニーたちは自分たちの体験が回心の直接的な原因だった(あるいは彼らに回心の心構えをさせた)と信じているかもしれないが、そのことは、その体験の「解釈」が他者の影響を強く受けていたという可能性を排除するものではない、ということだ。事実、自らの霊的な体験について非ムーニーに質問した結果得られた興味深い発見がある。それは、そうした体験をしたときにはある宗教団体に属していたが、後に離れた者たちが、その当時と現在の説明を求められると、かなりの人数の回答者が、その当時は宗教的な体験をしたと信じていたが、やがてそれは彼らの想像であったか、何かありふれたきっかけの結果だったという結論に至ったと認めている。逆に、それ「以来」宗教団体に所属している人々の多くは、当時はその体験を何でもないことと片づけていたが、いまは、それが神が自分たちに語りかけていたのだと悟った、と言う傾向にある。もちろん、そのような発見は、人々が特定の社会的状況に「適合する」ことだけを信じる、ということを意味しているのではない。保持することが社会的に極めて居心地の悪い信条に、明らかに固執している人々もいる。しかし、当該者が人生における神の役割についての自分の理解を変えることが「できる」という事実、さらに相当数の元ムーニー(決してすべてではないが)が、いまは自分たちの体験についての統一教会的な解釈を否定しているという事実は、そのような問題における社会的な圧力の強さと有効性を調べる必要があることを示唆している。言い換えれば、神によって導かれたと信じている人が、実際は、他者によってそう信じるように導かれたか、あるいは強制されたという可能性が少なくとも存在するのである。

回心の体験が突然に、そして予想外に起こることにより、一方でムーニーたちは神が介入したに違いないと確信し、また一方でその新入会員を以前から知っていた人々は、その人が「ひっかかった」理由は洗練された洗脳のテクニックに違いないと確信するようになる。(注7)。第五章で示唆したように、これらの議論はどちらも十分に納得の行くものではない。

私が目撃したある「突然の回心」は、私の研究のかなり初期段階で起きた。だが私はそのときすでに、「回心しそうな人」と「しそうもない人」を見分られるのが自慢であった。メアリーは、自分は「統一原理」には納得できないと私に打ち明けていたが、私は彼女を最も「回心しそうな人」に選び、二日間にわたって彼女の反応を慎重に見守っていた。すると、メシアが地上に来ているという「結論」が明かされた最終講義の間に、彼女が「光明を見いだした」ことを私はにわかに確信した。「メアリーは行ったか?」と私は走り書きをした。彼女はまるで別世界にいるかのように、くぎ付けになり、硬直した状態で椅子に座っていた。

講義の終わりに、彼女は奇妙な体験をしていたと語った。突然すべてのつじつまが合い、最も素晴らしい真理を聞いていたことを悟ったというのである。彼女はその悟りが起こったときが、講義のどの部分だったかを正確にわかっていると主張した。それが、私が観察したことをメモ書きしてから15分も「後」であったことを知って、私は驚いた。その後二回にわたって、私は「何かが」起こっているのを見たと思った。そして後にそのゲストがその頃――あるいは、むしろその変化に気がついてから数分後――に、突然の回心を体験していたことを知った。

私はこの現象を説明できない。だが突然の回心は、思ったほど不連続なものではないと私は確信している。まず第一に、この体験にいたる非常に明確な「下準備」があるように思われる。回心者自身はそれに気がつかないかもしれないけれども。第二に、突然の回心を体験する者たちは、非入会者よりも他の(突然の回心をしていない)ムーニーとより多くの共通の特徴を持っていると思われる。第三に、この出来事の後に観察可能な安定化の期間があり、この期間に新しいビジョンの溝が埋められるのである。

修練会のアンケートの回答者の範囲と分布は、私が修練会で観察した回答の範囲と分布に酷似していた。要約して言えば、圧倒的多数のゲストは、会員たちは感じが良く、献身的で、誠実であると見なした。だが彼らはまた、ムーニーたちは、多くの真理を含んでいるかもしれないが完全に飲み込まれるべきではない信仰体系に惑わされて、人生を投げ出しているとも考えている。特にそのメシア信仰や千年王国の約束に関してはそうである。また、二種類の少数派が存在した。一つは、統一教会が提供すると思われるものを受け入れて入会する者であり、もう一つは、全面的にこれを拒絶し、この運動が邪悪で危険であると非難する者である。

これらのデータが示唆しているのは、「自分たちがどのようにムーニーの手中に巻き込まれ、そして間一髪で逃げ出すことができたか」を誇らしげに語る人々のセンセーショナルな報告、あるいは「誰も彼らの心理的な強制を免れない」という主張(注8)を、大局的に見る必要があるということである。すべてのゲストが「全く」同じ修練会に参加したのではない、と論ずることは全く正当である。多様なゲストと、より小さな多様性をもったムーニーたちが、多様な場面に存在しているであろう。しかし、そのような変化によっては、ゲストの修練会に対する反応の体系的な多様性を説明することはできない。私がこれまで示してきた記述と議論によって、ムーニーが犠牲者を洗脳している証拠として反対者たちによって示されたいくつかの理由が、実に浅はかなものに過ぎないかを、いまや読者は納得していただいたと思う。だが、より真剣に検討する価値のある非難もいくつかある。次の章では、環境コントロール、欺瞞、そして「愛の爆弾」を、より詳しく扱うことにする。

(注7)彼らの議論を全面的に受け入れることは出来ないが、F・コンウエイとJ・シーグルマン「スナッピング:突然の人格変化というアメリカの伝染病」フィラデルフィア/ニューヨーク、リッピンコット、1978年は、突然の回心を概念化するためのより有益なモデルの一つを提供していると思われる。彼らは突然の回心を、非常に小さな情報の変化が人のホログラム(その人にとっての現実の像)の構造に大規模で壊滅的な変化を生み出すときに生じる脳のホログラフィックな危機としてみる。また、突然の回心の概念化の妥当性と、時間の要素の評価に関するさらなる示唆については次のものを参照せよ。E・C・ジーマン「カタストロフ理論:選集、1972~1977年」ロンドン、アディソンーウエスレイ、1978年、特に第8章と第12章;R・オフシェ「権威への従順:再分析ともう一つの説明」謄写版印刷物、カリフォルニア大学、バークレー、1982年。また以下も参照のこと。L・R・ランボ「宗教的回心に関する最近の研究」『宗教研究レビュー』第8巻、1982年。
(注8)市民自由財団「情報ニュース」1981年10月、p.3、および第5章冒頭の引用を見よ。

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