神学論争と統一原理の世界シリーズ28


 

六章 歴史について

4.左翼と右翼の起源は聖書にあった?

右脳と左脳
最近ちょっとした「右脳ブーム」が起こっている。(注1)七田眞氏(注2)の『超右脳革命』とか、同氏と船井幸雄氏(注3)の共著になる『百匹目の猿現象は右脳から』とか、これからの社会をリードしていくのは右脳型人間であり、左脳偏重の現在の状況を変えて行かなければならないという主張の本がずいぶん出ている。彼らは将棋の羽生名人(注4)やオリックスのイチロー選手(注5)などの天才が出現する秘密は右脳にあると主張し、最後には右脳は宇宙意識につながっているなどと説明する。こうなってくると何やら宗教っぽい。彼らの主張がどの程度科学的妥当性を持つのか部外者の私には分からないが、人間の左脳が言語力、分析力、論理的理解力などをつかさどり、右脳がイメージ力、直感力、想像力などをつかさどっているというのはどうやら本当らしい。現代において右脳の役割が強調されるのは、やはり合理主義の行き詰まりからくる閉塞状態を打開するために、人間のもつ直感力や創造性に期待がかけられていることの表れだろうか。

彼らは左脳は人間の「エゴ」すなわち自分を何よりも大切にする意識を働かせるのに対して、右脳は愛、調和、共存の意識を働かせるため、世界の平和には右脳の働きが重要であると主張する。考えてみれば人間の直感やイマジネーション、愛、調和、共存などは、昔から宗教が担当してきた分野で、右脳の働きは人間の宗教的な生き方をつかさどっているとも解釈できる。そこで右を人間の宗教的・直感的な生き方を代表し、左を人間の唯物的・合理的な生き方を代表するものとして歴史を解釈してみれば、非常に面白いパターンが発見されるのではないかと思ってこの節を書いてみた。以下に述べることには「統一原理」の内容にインスピレーションを得た私の仮説が含まれているが、そんなに外れたことは言っていないだろうと思っている。

人類最初の家庭の中での「右翼」と「左翼」
「統一原理」では左脳的な生き方を「カイン型人生観」と呼び、右脳的な生き方を「アベル型人生観」と呼んでいる。カインとアベルというのは旧約聖書の創世記に出てくるアダムの二人の息子のことで、「統一原理」では後の歴史をすべてこのカイン・アベルという二つの型に当てはめて解釈している。

さて、創世記によればカインは地の産物を、アベルは羊のういごをそれぞれ神に供え物としてささげたが、神はアベルの供え物だけを受け取って、カインの供え物を無視したので、カインは嫉妬して弟アベルを殺してしまう。この事件の詳しい背景は聖書には記されていないが、カイン型人生観とアベル型人生観の類型から判断して、次のような類推をすることができる。

カインは一種の「労働価値説」に基づいて判断する人間であった。すなわち彼はエゴが強かったので、自分が汗水たらして働いて得た地の産物は絶対に素晴らしい物であり、それを神は受け取って当然だと考えていた。もしそれを神が拒否したとすれば、それは神が自分を不当に扱ったのであり、自分に非はないという発想をする人物である。しかし供え物はもともと神を喜ばせるためにあるものである。彼には「どうしたら神を喜ばせることができるか?」と祈り求めるような、無私な心が欠けていたのである。しかしアベルは神の願いを直感的に理解しようとする、宗教的な人格の持ち主であった。それゆえに神はアベルを祝福した。しかしカインにはそのような内的な価値観が分からなかったので、嫉妬してアベルを殺害したのである。

旧約聖書ではこのような兄弟の争いは、イサクの二人の息子であるエサウとヤコブへと引き継がれていく。この二人は双子であり、カインの立場にある兄エサウが母の胎から出てきたとき、彼は赤くて全身毛衣のようであったと聖書には記されている。(何やらこれは、やがて神を否定するカイン型の思想として登場する共産主義のカラーである「赤」を予言しているかのようである。「赤旗」に象徴されるように、赤は共産主義の色である。)この二人の間にもカインとアベルのような兄弟の争いが生じるが、最終的には劇的な和解をする。このことは二つに分裂してしまった人生観が、やがて一つとなることが神の願いであることを物語っているかのように思われる。

「右の強盗」と「左の強盗」
この左と右、カインとアベルのパターンは、イエス・キリストの十字架の場面でも登場する。イエスとともに十字架につけられた左の強盗は、イエスに対して「もしあなたがキリストなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と言ったのに対し、右の強盗は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言って、イエスを賛美している。それを聞いたイエスは、右の強盗がイエスとともにパラダイス行くことを許すのである。左の強盗には今現在の自分の肉体的苦痛と恨みしかなかったのに対し、右の強盗はこれからイエスとともに行くパラダイスのビジョンを見ていたのである。すなわち右の強盗が宗教的な発想を象徴しているのに対して、左の強盗は懐疑的・唯物的な発想を象徴している。

右翼と左翼という言葉は、フランス革命前後のフランス議会の席の配置に語源を持っている。ルイ王朝の末期には、王を中心として貴族や高僧たちが右側に座り、第三市民といわれたブルジョアジーたちが左側に座っていた。そしてルイ王朝を倒した後には、穏健派のジロンド党が右側に、急進派のジャコバン党が左側に座るようになった。このことから保守的な勢力を右翼、革新的な勢力を左翼と呼ぶようになったわけであるが、ヨーロッパにおいては保守的な勢力は伝統的なカトリック教会の思想を基盤としたのに対し、革新的な勢力は唯物的な啓蒙思想を基盤とするのが常であった。やがて唯物思想に基づいた革新勢力は共産主義へと結実していったため、今日では左翼と言えば共産主義思想の代名詞のように使われているのである。

アメリカでは右翼といえばカトリックよりもプロテスタントの根本主義者たちのことをさす場合が多いが、いずれにしてもリベラルで唯物的な勢力と、伝統的なキリスト教の価値観を守ろうとする保守的な勢力との対決の構図が、左・右という言葉で表現されることは確かだ。日本では右翼といえば何やら聞こえが良くないが、彼らは本質的には日本の民族的アイデンティティーを保持しようとする人々で、やはりなんらかの宗教的基盤に立っている。そして左翼といえば御存知の共産党と過激派のセクトなどの総称である。

【図12】

【図12】

左翼と右翼を統合する「頭翼思想」
それでは「統一原理」はどちらか? といえば、それは左翼でも右翼でもない「頭翼思想」だということになる。そんなの聞いたことがないって? 当たり前である。これは文鮮明師が作った言葉なのである。ちょうど右脳と左脳が一つになって完全な脳になるように、宗教と合理主義は人間にとって両方必要なものだ。したがって右翼と左翼のどちらが正しいということはなく、どちらの主張も一面の真理を含んでおり、お互いがよく知り合って一つになれば人類の社会はもっと進歩する。【図12】

しかしちょうどカインがアベルを殺そうとしたように、左翼の人々には戦闘的なところがあって、けんかをしかけてくるから、これはちょっと困る。考えてみれば現在和平が難航しているアラブとイスラエルの争いも、もとはといえばアブラハムが召使いハガルに生ませた長男・イシマエルと、後の正妻サラとの間に生まれた二男・イサクの異母兄弟間の争いがその根っこにある。

今地上にある争いは、神の目からみればみな兄弟げんかのようなものだ。兄弟のけんかを仲直りさせるには、父母の仲裁が必要である。したがって左翼と右翼を統一する「頭翼思想」は、別名「父母主義」とも呼ばれるのである。何やら分かったような分からないような、と思う人もいるかも知れないが、要するにこれは「敵をも愛する」という愛の思想で、イデオロギーの対立を越えて人類を一つにする力があるという、文鮮明師の信念の表現にほかならないのである。

<以下の注は原著にはなく、2014年の時点で解説のために加筆したものである>
(注1)原著『神学論争と統一原理の世界』が出版された1997年の時点では、まだ「右脳ブーム」は新しく、知識人やメディアも「右脳・左脳」論を科学的根拠のあるものとして発言している人が多かった。最近では、理屈っぽい人物は左脳優位、芸術肌の人物は右脳優位といった説は、科学的な知見からかけ離れた通俗心理学に類するものであると批判されることが多い。筆者は当時からこうした考え方を全面的に信奉していたわけではなく、「どの程度科学的妥当性を持つのかは分からない」と断った上で、一つの仮説として論を展開していることをご理解いただきたい。
(注2)七田眞(しちだ まこと、1929 – 2009年)は日本の教育研究家で、七田式教育を提唱し、「しちだ・教育研究所」を創立した。
(注3)船井幸雄(ふない ゆきお、1933 – 2014年)は、大阪府出身の経営コンサルタントで、株式会社船井総合研究所の創業者。
(注4)羽生善治(はぶ よしはる、1970年~)は、日本の将棋棋士。1996年に史上初の「七冠独占」を成し遂げ、原著が出版された1997年の時点では天才の名をほしいままにしていた。
(注5)イチローは2001年のシーズンからマリナーズに移籍しているので、原著が出版された1997年の時点では「オリックスのイチロー」であり、当時から天才と言われていた。

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