神学論争と統一原理の世界シリーズ14


第三章 罪について

4.そもそも神が造った世界になぜ悪が生じたのか?

【図6】

【図6】

神が愛のお方で全知全能であるならば、神によって創造されたはずの世界がなぜ戦争や飢餓やあらゆる犯罪に満ちているのか? というのは誰しもが抱く疑問である。これは神学の世界では「神義論(Theodicy)」とか「悪の問題(problem of evil)」とか呼ばれる古典的な問題だ。これに対して今までさまざまな解答がなされてきたが、伝統的には【図6】に示すような三角形を使って説明されてきた。

 

袋小路にはまる神義論

三角形の各頂点には、キリスト教信仰の本質ともいうべき三つの命題が記されている。「1、神は全能である」。「2、神は全き善の存在である」。「3、悪は実在する」。この三つはいずれもキリスト教信仰において欠くことのできないものだが、実はこの三つが同時に成り立つのは不可能なのだ。すなわち三つのうちのどれか二つを肯定すると、残りの一つを否定しなければならなくなってしまう。

一つずつ検証してみよう。もし神が全能で、かつ全き善の存在であれば、悪は実在できないはずである。次に、もし神が全能で、かつ悪が実在するとすれば、神は全き善の存在ではあり得ないはずだ。そして、もし神が全き善のお方で、かつ悪が実在するとすれば、神は全能ではないはずである。このように三つが同時に成り立つということは、論理的にあり得ない。そこで、この三つのうちのいずれも否定できないとすれば、袋小路にはまってしまうのである。

このことがすぐにのみ込めない人の為に、一つの例えで説明してみよう。あるワンマン社長がいて、その会社の商取引はすべて社長の一存で決定していたとする。そして社長は常々、自分は絶対に不正な取引はしないと公言していた。にもかかわらずこの会社の取引に不正があったと告発されたとしたら、どうなるだろうか? この会社の原則である「社長の一存による決定」と「社長は不正取引はしない」という二つの命題を守ろうとすれば、不正取引の存在を何としてでも否定し、それを証明しなければならない。しかし動かぬ証拠があって、それを認めざるを得なくなったとすれば、それは誰の責任か? ということになる。もし「社長の一存による決定」という命題を否定し、部下が勝手にやったことだと分かれば、社長は責任を回避できるが、社長がこの会社の全権を掌握していたということは否定される。逆にあくまで社長の決定によってなされたことだということになれば、「社長は不正取引はしない」という命題が否定されなければならないのである。この社長を神に、不正取引を悪に置き換えれば、前述の神義論と同じ内容であることが分かるだろう。

したがって、「神は全能である」「神は全き善の存在である」「悪は実在する」という三つの命題のうちのどれかを否定するか制限するのでなければ、神義論の問題は解決できない。これまで数多くの神学者たちが、このうちのどれか一つを否定することによってこの問題を解決しようと努力してきた。しかしそれらはいずれも何らかの難点を残している。

まず「神は全き善である」ということを否定するのは、宗教である以上難しいかのように思われる。もし神に悪なる要素があるならば、崇拝に値しないからだ。しかしこの種の議論は実際に存在する。それは次のようなものだ。神における善は、我々のいう善とは違う。そもそも無限なる神を我々の日常生活に根拠を置く「善」というような概念に閉じ込めようとすること自体が傲慢なのであって、神の善は我々の理解する善とは等しくなく、それを超越しているのである、といった具合だ。しかし神が善であるといいながら、我々の知っている意味とは別の意味で「善」であるというのなら、それは言語学的な意味を欠く言葉の遊びのようにも思える。

次に「悪が実在すること」を否定する方法だが、アウグスチヌスの議論が有名である。それは「悪とは善の欠如、あるいは存在の欠如であって、究極的な実在性を持たない。それは影のように、実在するかのように見えるだけである」といった議論である。しかしこれは多分に哲学的な思弁であって、実際に悪の問題で苦しんでいる人には何の慰めにもならないだろう。

神でさえ干渉できない領域

結局、この問題を解決する一番妥当な方法は、神の全能性を制限するということになりそうだ。しかし、これは神が無能だといっているのではない。無条件に全知全能ではないということだ。先ほどの社長の例で言えば、いつまでもワンマンでは部下が育たないから、判断権の一部を部下に与え、同時に責任を持たせようとするのに似ている。それは未熟な社員による不正行為を生むかもしれないというリスクを伴っている。しかしそうしてまでも部下を育てようという社長の方が、ワンマン社長よりも愛が深く、懐が大きいとはいえないだろうか? それと同様に、神は天地の創造主であるから、その気になれば宇宙の出来事をことごとく支配することができる。しかし神は自分の被造物である人間に自由意志を与え、神だに干渉することのできない領域を自らつくることによって、自己の主権を制限されたのである。「統一原理」では、このような領域のことを「人間の責任分担」と呼んでいる。

しかし、神がそんな余計なことをしたから、悪が生じてしまったのだと文句をいわれる方もいるだろう。ここまでくると、後は論理を越えた情の世界である。神がなぜ、悪が生じる可能性を知りながらも、あえてリスクを冒して人間に自由意志と責任分担を与えたのか? その動機と心情の世界を知って初めて、この問題は解決する。「統一原理」は、そのような神の心情の世界を説く神学なのである。神が人類に自由意志と責任分担を与えたのは、人間に機械じかけで神の命令に従うロボットのような存在になってほしかったのではなく、自律的な意志と責任において行動する「子供」になって欲しかったからである。すなわち神は人間に親子の関係を求めたのだ。

神が人間に自由を与えたというと、善でも悪でも好きなほうを選べと神が言ったかのように誤解する人がいるが、そうではない。神は無責任な放任主義の親ではなく、明確な教育的目的をもって人間に責任を与えたのである。しかし人間はそれに応えられなかった。その時から神は悲しみの親となったのである。

親なる神としては、一日も早く人類を罪悪から救いたいはずである。しかし神は人類に責任分担を与えたがために、人間の意志に反して強制的にこれを救うことはできない。人間が自らの自由意志と責任によって神の意志に従わなければ、神も人間を救うことはできないのである。これはちょうど不良になってしまった子供を更正させようとする親の立場に似ている。子供に罪を犯させないように自宅に軟禁しておくことは簡単かもしれないが、それでは子供はいつまでたっても一人前になれない。むしろ失敗したとしてもそれを教訓としながら、子供が善悪を自分で判断できるようになり、独り立ちできるようになるまで忍耐をもって導くのが本当の愛ある親というものだ。これが人間に自由と責任を与えた神の心情の世界なのである。

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