神学論争と統一原理の世界シリーズ07


 

第1章 神について

 5.神が唯一なら、なぜさまざまな宗教があるのか?

宗教は本来、愛と平和を説くはずのものであるのに、どうして宗教同士が互いに争ったり、いがみ合ったりするのか? ということをよく耳にする。神が全宇宙の創造主であり唯一絶対の存在であるならば、その神を求める宗教は究極的には同じものを目指しているはずだから、宗教が分裂したり争ったりするのはおかしいのではないかというわけだ。しかし実際に宗教の歴史を調べてみれば、愛や平和を示すような事例よりも、争いやいがみ合いを示す事例の方がはるかに多いことに気づく。これは宗教の特質というよりは、人間の特質といったほうがよさそうだ。宗教を人間の歴史や文化と切り離して、単なる理想としてとらえることはできない。大部分の宗教戦争は、同時に民族戦争であり文化戦争でもあった。

 

他宗教の人はエイリアン?

近代以前の世界は、いくつかの宗教文化圏に地理的に分割されていた。おのおのの文化圏のボーダーラインにおいては、小規模の交流や紛争はあったかもしれないが、大多数の人々は他の宗教伝統に直面することなく一生を終える時代であった。ところが近代になって交通や通信が発達し、人々が世界中を行き来するようになると、自分とは非常に異なった宗教伝統をもつ人々の存在を身近に意識するようになった。しかし初めのうちは、人々の目には他宗教の人々はエイリアンか野蛮人としか映らなかった。

他宗教に対する理解を深めようという学問的な研究を、最初に始めたのはキリスト教であった。アジアに進出したヨーロッパ諸国の研究者たちは、その地に古くから伝わる宗教の膨大な量に上る経典や伝承を、自国の言葉に翻訳して整理した。もっともこれは植民地の文化的支配のための研究という意味あいが強かった。キリスト教は、他宗教を研究することによって自らの優位性を立証しようとしたのである。これは古来よりの「異教論駁」の精神を継承しているといえるが、結果的にはこうした研究作業が将来の宗教一致運動に大きく貢献することとなった。

20世紀に入ると、分裂したキリスト教の諸教派を一致させていこうという、いわゆる「エキュメニズム」という考え方が出てくる。これは自分の伝統こそ絶対的真理であるというそれまでの排他的な考えを改めなければ実現できないことであったので、必然的にキリスト教以外の宗教とも対話し協力していこうという方向へ向かうようになった。ここにきて宗教は、ようやく「自己の伝統を相対化してみる」ことができるようになってきたのである。

しかしこれは宗教が絶対的真理を放棄したということを意味しない。宗教は絶対者とのかかわりがあって初めて存続し得るものだからである。しかし各宗教の「教義そのもの」は唯一絶対とはいえないということに気づいたのである。宗教は言語のみによって成り立っているのではない。必ず何らかの宗教的体験があって、それを言語化したものが宗教の教義である。より重要で絶対的なのは宗教的体験であって、教義はそれを表現したり伝えたりするための手段に過ぎない。キリスト教では長い間、この真理の表現方法に過ぎない教義を、「形而上学的真理」として絶対視してきたために、論争が絶えなかったのである。

ちょうど日本人とアメリカ人が同じ体験を違った言語で表現するように、各宗教は同一の宗教体験を異なった言葉で表現する。言葉が通じなければ互いに誤解や行き違いが生ずるだろうが、辞書を持ってお互いの言語を勉強すれば、やがて通じ合うようになる。もし各宗教が同一の源泉から出てきたものであるとすれば、その中に多くの共通の体験や価値観を発見できるはずである。問題は、いかにお互いの伝統をよく研究し、理解を深めるかである。

 

諸宗教が山の頂で出合う時

「統一原理」は、聖書は真理そのものではなくて真理について教えてくれる一つの教科書にすぎないので、これを不動のものとして絶対視してはならないといっている。これは聖書の権威を引き下げようとするものではなくて、先に述べたような他の宗教伝統に対する排他的な態度を避けて、互いに共通の目的を中心として協力し合えるようにならなければならないというメッセージなのである。それは他の宗教の教典や教義についても同様である。神はさまざまな民族や時代に応じて、その状況にふさわしい真理の表現方法をとられたので、多種多様な宗教が出現するようになったのである。

統一教会の教理解説書である『原理講論』は、キリスト教的な伝統のうえで「統一原理」の内容を表現したものだが、これが唯一の表現方法であるとは考えられていない。したがって統一教会はキリスト教以外の宗教との対話のために、世界の諸宗教の言葉で原理を表現しなければならないと考えており、そのために今まで継続的な超宗派活動を行ってきたのである。最近の動きでは『世界経典(World Scripture)』(注1)の編纂がある。これは世界の宗教で使われている概念を、お互いに翻訳し合って理解するための辞書のようなものだ。その中では神、罪、救いといった各テーマごとに、世界の諸宗教が経典の中で述べている内容が整理され、互いの類似性が明らかにされている。

世界経典

世界経典

統一教会は、もはや宗教同士が争う時代は終わろうとしていることを察知し、そしてそれが神の願いであるととらえて、来たるべき「宗教の和合」の時代への牽引車の役割を果たそうとしている。統一教会が目指している「宗教の和合」の概念は、山登りの例えによって表現することができる。一つに山を登るのに、そのルートはいろいろあるかも知れないが、頂上は一つである。

これと同様に、世界中に存在するさまざまな宗教は「神との出会い」という頂上を目指して別々なルートで山を登る、個々の登山家と見ることができるであろう。個々の登山家はそれぞれ違った苦労をしながら頂上を目指して歩んできたが、やがて頂上が近くに見え始めると、別の登山家の姿も見えてきた。このとき登山家たちは過去に執着し、自分の登ってきたルートだけが正統的な道だといって、他の道を排斥するようになるのだろうか? それとも他のルートを登ってきた登山家たちの苦労話を聞きながら、頂上で共に喜びを分かち合うのだろうか。

ほかのあらゆる分野においてボーダーレス化が進む現代社会において、宗教が生き残り、さらに世界に対して積極的な貢献をしていくためには、宗教は間違いなく後者の道を選ぶほかないのである。そしてそれこそは『統一原理』のめざす宗教和合の道である。

<以下の中は原著にはなく、2014年の時点で解説のために加筆したものである>
(注1)『世界経典』の発行は1991年。原著が出版された1997年の時点では、まだ「最近の動き」と言うことができた。

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