アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳44


第5章 選択か洗脳か?(7)

新会員獲得活動

時として、統一教会の修練会で起こっている出来事を記述するだけで、洗脳が行われている十分な証拠であるとみなされることもある。それが示唆しているのは、われわれはムーニーが洗脳されているとかいないとか言う人々の意見のどちらか一方を取る必要はなく、われわれのなすべきことは、新会員になりそうな人が運動に出会ったときから何が起きるのかを見ることである、ということだ。しかしここで再び言うが、論点先取には警戒しなければならない。すなわち、修練会に参加すれば洗脳されているのだといった「仮定」にだけ頼るような議論にならないようにしなければならないのだ。われわれは、ムーニー自身が「興味のある人々に、われわれの運動について全てを語るセミナーである」と描写する修練会と、強制的な行為とを区別するための独立した基準を持たなければならないのである。われわれはどんな「テクニック」であるを知る必要があるが、これが非強制的なコミュニケーションの一つではなくて、洗脳のプロセスであるとどうして言えるのかについても知る必要がある。

統一教会の新会員獲得活動はしばしば中国や朝鮮の戦争捕虜が受けていた洗脳行為と比較されてきた(注35)。シンガーがこの問題についての専門家であると主張するのは、朝鮮から送還された国連軍捕虜の追跡調査を行った米陸軍の部隊に、彼女が一時期勤務していたという事実によっている。彼女がカルトに関わった人々にインタビューしたとき、「カルトの教化方法についての彼らの話は、北朝鮮や中国で用いられていた集団教化方法の多くを私に思い起こさせた」(注36)と彼女は語っている。この比較の問題点は、一見したところ、そのような行為の否定できない要素が、犠牲者たちは捕虜だった(そして肉体的な拷問を頻繁に受けていた)(注37)ということであると思われる。ムーニーがゲストを拷問しないことはもちろん、彼らを捕虜として扱っていないという証拠が示されたならば、そのような比較は的外れであることを示唆しないだろうか? シンガーによれば、そうではないらしい。彼女がムーニーは共産主義の洗脳者と比較できるという自分の主張に加える特別なこじつけは、彼ら(ムーニー)は物理的な力の代わりに「愛の爆弾」を用いるので、共産主義者よりもはるかに洗練されている、というものだ。彼らは疑うことを知らない犠牲者たちを油断させて、彼らが善良で、親切で、愛のある人々であると信じさせているというのである(注38)。

もちろん、戦争捕虜の思想改造(注39)のプロセスと、ムーニーになるプロセスの双方に共通するファクターはいくつかあるだろう。しかし重複している部分は、カトリックや、大卒者や、イスラム教社会の女性や、陸軍将校になるプロセスにも見いだすことは可能だ。このことは、統一教会が強制的な方法を使用していないということの証明にはならない(「愛の爆弾」の効果については、第7章で詳細に見ることにする)。しかしながら、(身体的統制などの)極めて重要な要素が欠けているにもかかわらず、プロセスが若干の共通要素を持っているという事実に頼る議論は、真剣に受け止めることはできない。もちろん、思想改造や回心を説明する上で、共有する要素そのものだけで十分であり、欠けている要素は不必要であるということが示されれば、話は別であるが。もしこれができないのであれば、もし修練会の構成要素が、何か邪悪なことが行われているとは推察されない他の情況とより多くの共通点を持つように見えるのであれば、われわれは統一教会の環境を全体としてみて、その構成要素が結果的に強制的なものであると分類し得るかどうかを、独立した基準によって、問わなければならない。

これをどのようにするのか? われわれは確かに、統一教会の環境の中で何が「起こっている」かを調べる必要があるし、また修練会を構成しているさまざまな要素を見る必要がある。これはわれわれにできることだが、同時にわれわれはムーニーたち、および彼らがムーニーになる以前から知っている人々、元ムーニーたち、非ムーニーたちから関連すると思える情報を出来るだけ多く収集することもできる。しかし、既に論じたように、これら一つ一つの情報の全てが調査には必要であるが、どれもそれだけでは十分ではない。次の問題は、ジグゾーパズルのさまざまな破片をどこに配置するかという問題を解くことである。われわれはこれらの異なるデータをどのように整え、使うことができるだろうか?

 

質問を練り直す

われわれの当初の質問は、大ざっぱに言えば次のようになる。すなわち、「ムーニーは新会員を洗脳しているのか?」である。だがこれは、あまりにも不明確な言い方である。すでにわれわれが見てきたように、「洗脳」は(例えば、精神破壊、マインドコントロール、思想改造、強制、教義の植え付け、条件付け、回心、説得、社会化、再教育、影響、あるいは単に考えを変えることなど)あらゆる種類の概念と同じ意味で使われてきた。この多様性を考慮すると、またある特定の言葉が正確に記述することよりも単に非難を表現するために頻繁に選択されることが多いという事実を考慮すると、さらにある具体的な状況においてどの言葉が最も適切であるかを決められるような、一般的に合意された基準が存在しないことを考慮すると、ここでわれわれは手短に、実際的なレベルで区別したいことが何であるかを、概念レベルで明確にしてみてはどうだろうか。

まず第一に、議論から除外されなければならない二つの極端な立場がある。一方で、われわれ「全員が」が洗脳されていると論じる人々がいる。すなわち、われわれの行動は遺伝と環境の産物であるため、自由意思は神話に過ぎないという立場である(注40)。また一方で、被験者が単なる条件反射の塊に過ぎず、もはや思考することもできず、したがって人間として破壊されているような、極端な肉体的統制と感覚剥奪の状態を除いては、誰かを洗脳することは不可能だと主張する人々がいる。人間が影響を受けることはあり得るが、社会的な条件付けは論理的に不可能である、という議論である(注41)。

これら双方の立場の問題点は、それらが議論を一次元のレベルに還元しているように見えることである。それは、われわれの大部分は自分の行動が社会環境によって制約されたり拡大されたりすると感じているが、そうした行動に対する個人の責任の「範囲」を探る余地を一切与えないからである。目下の論争の主役たちに関する限り、自由意思が存在するか否かは論点ではない、ということも指摘しておく価値があるだろう。ムーニーたちが、自分は自分の意思で決断をしていると信じていることは明らかである。同様に、ムーニーが洗脳されていると信じる人々もまた、まさに実在する潜在能力(彼の自由意思)が取り除かれたのであり、それは回復可能であるとみなしているのである。

(注35)とりわけ次のものを参照せよ。スワットランドとスワットランド「ムーニーからの逃亡」p.9;C・ストナーとJ・A・パーク「全て神の子供たち:カルト体験ー救済か奴隷か?」ハーモンズワース、ペンギン、1979年(初版1977年)
(注36)シンガー「元カルト会員のセラピー」p.14
(注37)リフトン「思想改造と全体主義の心理」;E・H・シャイン「戦争捕虜に対する中国の教化プログラム:企てられた『洗脳』の研究」、『精神医学』第19巻(E・E・マッコビーほか編『社会心理学読本』第34版、ロンドン、メズエン、1966年で再版された);E・H・シャイン「強制的説得」ニューヨーク、ノートン、1961年
(注38)デイリーメール裁判におけるシンガーの証言、16ページ以下。またストナーとパークの「全ては神の子供たち」p.240を参照せよ。別の観点としては、F・コーンウェイとJ・シーグルマン「情報病:カルトは新しい精神病を生み出したか?」『サイエンス・ダイジェスト』1982年1月、86ページ以降。
(注39)私はリフトンが「思想改造と全体主義の心理」の中で用いた言葉を使う。それは、彼の研究がこの特定の議論の中でもっとも頻繁に引用されているからである。
(注40)行動主義心理学の最もよく知られている主唱者としては、B・F・スキナー「自由と運命を超えて」ハーモンズワース、ペンギン、1973年(1971年に米国で最初に出版された);B・F・スキナー「行動主義心理学について」、ロンドン、ケープ、1974年を参照のこと。
(注41)この議論の洗練されたものとしては、K・R・ミノギュー「社会状況付けの神話」『ポリシー・レビュー』第18号、1981年、23ページ以降を見よ。

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