日韓関係の課題解決におけるソフトパワーの有効性05


2.日本のソフト・パワーと韓国に対する影響力

 (イ)日本のソフト・パワーの韓国に対する影響力(前回からの続き)

 日本における「韓流ブーム」は有名であり、それを知らない韓国人はいないと思われるが、徐賢燮は日本文化の解放によって韓国にも「日流」と呼ばれる静かな現象が起こっていると論じている。それは韓国人が日本のアニメやドラマ、小説等を愛好し、日本の製品や文化が浸透定着することであるが、これは韓国人の生活にごく自然に溶け込んでいるため、わざわざ「日流」と呼んでブームと認識する必要もないほどだという。これによって、両国の市民レベルの心理的距離は相当に縮まっており、いまでは「日韓の政治・外交が緊張したとしても、文化・人的交流もたちまち連動して冷え込むという構造ではなくなっている」(注42)と徐賢燮は論じるが、彼の論文は2012年に書かれたものであり、現在の状況を見ても彼が同じ主張を繰り返すかどうかに関しては疑問が残る。

 それではこうした日本のソフト・パワーの影響力は、日韓の政治的対立の影響を受けてもなお有効であると言えるのであろうか? このことに関する包括的な研究の一つに、朝鮮文化研究所の招聘研究員である鄭榮蘭が発表した査読付き研究ノート「政治的対立と文化交流による日韓相互認識の変遷-日韓の文化受容(韓流・日流)が国民意識の変化に与える影響-」(注43)がある。彼は、日本の『朝日新聞』と韓国の『東亜日報』が行った世論調査をもとに、韓国人の日本に対する好感度を1995年から2015まで長期間にわたってグラフで示して分析している。

 鄭榮蘭によれば、韓国人の日本認識は静態的なものではなく、日韓間の葛藤、韓国内の葛藤といったものがすべてインプットされ、政治状況など様々な要因を背景として決まるという。ポジティブなものとしては、日本における韓流ブーム、サッカー・ワールドカップ日韓共同開催が、ネガティブなものとしては、歴史教科書問題、靖国神社参拝問題、李明博大統領による竹島(独島)上陸などが好感度に影響を与えて、上がったり下がったりを繰り返してきたと見ることができる。一般的な傾向として日本人は「どちらでもない」が6割から7割を占め、明確に好き嫌いの意見を持つ者は少数であるのに対して、韓国人は好き嫌いを明確に判断する意見が多いのが特徴であるという。(注44)

 鄭榮蘭の研究ノートは韓国における日本文化の開放が日韓関係を好転させたというような楽観的な断定を避けており、地道な文化交流によって相互理解が進んだとしても、深刻な政治対立が起これば感情は一挙に悪化することを認めている。にもかかわらず、開放による日本文化の流入は、文化の吸収力が高い若年層から確実に影響を与えており、両国民の間に相互理解と隣人としての対等で自然な関係を構築する効果をもたらしたという、楽観的なトーンで結論が締めくくられている。(注45)この結論は、未来志向の日韓関係を支持する思想から来るものであると思われる。

3.韓国のソフト・パワーと日本に対する影響力

 (ア)韓国のソフト・パワー

 韓国のソフト・パワーは「韓流」という言葉によって集約されるが、その構成要素は多様である。まず、冬のソナタやチャングムの誓いを端緒とするドラマ、シュリ、JSA、猟奇的彼女を初めとする映画、BoA、少女時代、カラなどの歌手といった文化コンテンツが日本、中国、フィリピン、ベトナムで人気を博し、ヨーロッパや南米にまで影響を及ぼした。韓流の文化コンテンツは韓国商品の輸出増進と韓国に対するイメージ上昇につながって韓国のソフト・パワーを形成するのに大きく役立っている。次に「経済韓流」があり、東南アジア、中東、中南米などで10~20代の若者たちを中心に化粧品、アクセサリー、女性衣類、携帯電話、電子機器、嗜好品(お菓子、ラーメン、キャンディ)に広がっている。サムソン電子やLG電子などの韓国企業は、世界的にブランド力を高めている。(注46)

 しかし現代の「韓流」に入る前に、近代以前の日韓関係において、ソフト・パワーが機能した事例として、「朝鮮通信使」に触れておきたい。もちろん、その時代にソフト・パワーという概念が存在したわけではないが、文化の力によって相手を感化し、それを外交に活用しようという試み自体は、この言葉が生まれる以前からあったのである。

 過去の歴史において、日本と朝鮮の関係を非常に悪化させた事件の一つが、豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰倭乱)であった。これによって一時期両国は国交断絶状態になったが、それを回復させる役割を果たしたのが朝鮮通信使である。通信使自体は室町時代に始まったものだが、秀吉の朝鮮出兵によって中断されていた。それが徳川の時代になって再開され、200年間に合計で12回も派遣されている。江戸幕府は西洋諸国に対しては国を閉ざしていたが、朝鮮とは国書を交換し、正式な国交を結んでいたのである。(注47)

 通信使に対して日本が行使したソフト・パワーは「おもてなし」であった。通信使を迎えるために幕府が使った費用は、18世紀の初めごろで約100万両だった。当時の幕府の年間予算が78万両であるから、それを超える莫大な費用をかけて朝鮮のお客様を迎えたことになる。そればかりでなく、幕府は通信使の経路にあたる各藩に対してリレー形式で接待役を命じ、各藩は威信をかけて地元の名産品でもてなしたのである。(注48)

 朝鮮通信使には、詩文や書を書く人、絵を描く人、音楽を奏でる人、医者などが同行しており、一種の文化使節としての役割を果たしていた。外国との接触が限られていた当時の日本人にとっては物珍しく、行く先々で多くの人々が詩や書画を求めて集まったという記録が残っている。このようにお客様をもてなし、その返礼として文化を受容するという関係を継続することを通して、日本と朝鮮は200年間にわたる平和な時代を築いたのである。

 それでは、朝鮮側にとってこの通信使はどのような意味があったのであろうか? 2009年12月27日に放送されたNHKのETV特集シリーズ「日本と朝鮮半島2千年」の第9回「朝鮮通信使・和解のために」は、朝鮮通信使の実情を日韓両国の最新の研究をもとに明らかにしている。この番組の中で梨花女子大学校のイ・ヘスン名誉教授は、「朝鮮通信使に加わった我が国の文士たちは、戦争をおこした日本人たちの侵略性を文化的教養によって変え、再び戦争を起こさせないようにするという大きな狙いを持っていたと思います。日本に行って、日本の人々が欲しいと願う詩をたびたび贈り、文化的な現象をおこし、それによって日本人の武力崇拝的な気質を緩和させることができると考えたのです。そうやって平和を維持しようと考えたと思います。」(注49)と語っている。

 李氏朝鮮においては、文官と武官を合わせて「両班」と呼び、武官は文官の下に位置づけられていた。李氏朝鮮で国家の官僚になるには、科挙制度の下で試験を受けなければならず、国家の運営に関わる人は学問を治めなければならないという思想が徹底していた。一方で日本は武士階級が国家を運営する「武の国」であり、科挙制度はなかった。したがって儒教の知識においては朝鮮の官僚の方がはるかに高い教養を持っていたのである。儒教の知識を伝授し、詩を作って贈るというのは、朝鮮の行使し得るソフト・パワーであった。朝鮮の側から見れば、日本は武官が統治する野蛮な国であり、朝鮮が文化を伝授することによってその侵略性を緩和する必要があった。その意味において朝鮮通信使は、朝鮮の安全保障にとって必要なソフト・パワーとして位置づけられていたという解釈が可能なのである。

(注42)徐賢燮、前掲論文、p.249
(注43)https://www.waseda.jp/inst/cro/assets/uploads/2017/04/d8563f54a86be1222c9890a4ab0e5e48.pdf
(注44)鄭榮蘭「政治的対立と文化交流による日韓相互認識の変遷-日韓の文化受容(韓流・日流)が国民意識の変化に与える影響-」、p.93-98
(注45)同論文、p.98-100
(注46)林守澤「韓国ソフトパワーグローバル展開と韓日企業連携」(AIBSジャーナル No.6)
(注47)日韓共通歴史教材制作チーム (編)『日韓共通歴史教材 朝鮮通信使』(明石書店、2005年)、pp.50-69
(注48)同書、p.102
(注49)NHKのETV特集シリーズ「日本と朝鮮半島2千年」の第9回「朝鮮通信使・和解のために」の映像より。

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