北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ07


 北村サヨと天照皇大神宮教に関する研究シリーズの7回目である。第3回からは天照皇大神宮教の教えを統一原理と比較しながら分析する作業を開始したが、今回はこの二つの宗教における歴史論・終末論的な側面を扱うことにする。と言っても、天照皇大神宮教はキリスト教的背景を持つ宗教ではないため、明確な意味での「神の摂理」「終末論」「歴史に働く神」といった概念があるわけではない。しかし、北村サヨの説教にはそれを思わせる言葉が出てくるため、それらを分析して統一原理と比較しようというものである。

<天照皇大神宮教の終末論と「世直し」の教え>

 北村サヨが本格的に説法を開始したのは昭和20年7月22日である。第二次世界大戦の末期であり、終戦間近の時期である。サヨの初期の説法は、「宮城一棟を残して日本全土を焼き払うと神様は言うておられる」「末法の世は終わり、日本の夜明けは近づいている」「これからが、本当に神の国を建設する時代じゃ」など、当時としては過激な内容であったという。「末法の世」は仏教における終末論といっていいし、破壊と新しい時代の到来というのは典型的な終末論的メッセージである。しかし、第二次世界大戦の敗戦とともに、こうした終末論的メッセージは語られなくなり、「世直し」が強調されるようになった。ある意味では、日本の敗戦と新しい戦後体制の出発によって、サヨの予言は成就したと言えるのかもしれない。天照皇大神宮教は、基本的には世の終わりを予言して人々を不安に陥れて布教するようなタイプの宗教ではなかった。

 北村サヨは、世の中の出来事はすべて神様が考えたように動いている、つまり「神芝居」であって、自分はその「神芝居」の一座を率いるように神様から命じられた「役座=座長」であり、信者たちは神様の描いたシナリオを演じる役者たち、「神役者」であると説いた。彼女が自分のことを「おんなヤクザ」と呼んだのは、その意味においてである。その自分に神様が与えた使命は、「世直し」であった。ここにはキリスト教神学における「神の摂理」に近い考え方がある。

 サヨが浪花節のような調子で説いた辻説法のサワリの部分は以下のような文言であった。
「なんぼ世の中よいようになさる神さまあるものよはいいながら、相手が人である故に、人をつかわにゃままならないで、今じゃ天父(テントー)が天下り、わざわざ百姓の女房の肚をかり、百姓の女房の口を使って、人間みち教えて歩くがヤクザの口よ」

 その意味は、「神様は乱れた世の中を正そうとしたが、所詮は人間が作っている世の中だから、その意図するところを人間の口を使って伝えねばならなかった。そこで、どういうわけか、『百姓の女房』だった自分の肚に宿り、その口を使って、こうやって世の皆の者に世直しを訴えているのである」といったところである。

 サヨの説法は、敗戦によって混乱と自信喪失に陥っていた当時の日本人の心に響いた。国と個人の将来に対して不安を感じていた人々の、心の空白を埋めるような力強い魅力があったのであろう。サヨは日本の敗戦という歴史的な一大事から何かを感じ取り、神が自分を通して世界平和と新しい日本の建設という壮大な事業を成し遂げようとしているという確信を持ったのかもしれない。

 島田裕巳は、著書『日本の10大新宗教』の中で、天照皇大神宮教は極めて戦後的な新宗教であったと解説している。「戦前においては天皇は現人神とされ、崇拝の対象となっていた。その現人神が支配する日本という国は、『神国』とされ、神国の行う戦争は『聖戦』と位置づけられた。ところが、神国は聖戦に敗れ、一九四六年一月一日、天皇は『人間宣言』を行った。突然、神国の中心にあった天皇が神の座を降りることで、そこに空白が生まれた。サヨの肚に宿った神が、天照皇大神宮を称したのも、その空白を埋めようとしたからである。」(p.90-91)「日本の敗戦と天皇の人間宣言という出来事が起こることで、そこに生じた精神的な空白、現人神の喪失という事態を補う方向で、その宗教活動を先鋭化させた。天皇に代わって権力を奪取しようとしたわけではなかったが、空白となった現人神の座を、生き神として継承しようとした。」(p.102)

 島田の解釈が教団の自己理解と一致するものなのかどうかは分からない。そもそもサヨの肚に神が宿ったのは天皇の人間宣言の前であるし、その神は天皇家の祖神である天照大神ではなく、宇宙の絶対神だから関係ないという反論も可能であろう。島田が言っているのはそうした教団側の信仰とは別に、それを受け止める側の日本人にとっての意味を社会学的に分析したということなのだろう。社会学においては、あらゆる宗教は時代の産物であり、神の啓示よりも当時の社会的状況を背景として理解されるからである。

<統一原理の終末論と「神の摂理」>

 文鮮明師が宗教者としての牧会活動を開始したのも、第二次世界大戦の直後であった。家庭連合は韓国発祥の宗教であるから、終戦のとらえ方は日本とはまったく異なる。日本人にとって終戦は敗北であり、挫折であり、天皇の人間宣言は現人神の喪失であったが、韓国人にとっては日本の植民地支配からの解放であり、「光複」(奪われた主権を取り戻すこと)であった。韓国の宗教が日本の敗戦と植民地支配の終焉を、悪の時代の終わりと新しい希望の時代の到来ととらえるのはごく自然なことであった。キリスト教であればそこに終末論的な解釈が施されても不思議ではない。

 『原理講論』においては、韓国が乙巳保護条約から第二次大戦の終了まで40年間にわたって日本の植民地支配を受けたのは、古代イスラエル民族が40数に該当する苦難の道を歩んだのと同様に、韓民族が選民となるために必要な蕩減条件であったととらえている。韓民族が40年にわたる苦役路程を終了したのが1945年8月15日である以上、そこから新しい神の歴史が出発するのは必然であり、文師の教えもまた、この時代における終末論的なメッセージであったと言える。ただし、文師は身の回りの出来事から直感的に終末を叫んだのではなく、人類歴史全体を俯瞰した「神の摂理」の枠組みの中で、現代が終末であると説いた点が、その神学の大きな特徴であった。

 統一原理は、「歴史に働く神」という概念を持っており、人類歴史は地上にメシヤを遣わすための神の摂理の歴史であったととらえている。それは旧約聖書の「創世記」から始まり、最初の人間であるアダムの家庭から、アブラハム、イサク、ヤコブの家庭までに二千年の歳月が流れている。この最初の二千年間に神の摂理のエッセンスが詰められており、それから後のイエス・キリストまでの二千年、そこからさらに現代までの二千年は、それと本質的には同じ内容をを民族レベル、世界レベルで繰り返したものである。繰り返してきた理由は、本来人類始祖アダムとエバが完成させるべきであった神の創造理想が、彼らの堕落によって成し遂げられず、その後孫である人類に受け継がれてきたためだ。

 聖書を調べていくと、そこには繰り返し出てくる不思議な数字があるのを発見する。それは12、4、21、40という数字であり、それを10倍化した120、40、210、400も基本的には同じ意味を持っている。例を挙げればノアが箱船をつくる期間の120年と洪水審判の40日、キリストの12弟子と40日の断食など、枚挙にいとまがない。そしてこれらの数字は単に聖書の中に現れるだけでなく、今日に至るまでの世界史を動かしている不思議な数字であることを「統一原理」は発見した。すなわち、歴史を神の摂理からみて重要な事件を中心として区切っていくと、必ずその年数がこれらの数字となって現れるというのである。以上のような法則性に基づいて、アダム以来今日に至るまでの人類歴史を概観した鳥瞰図が「歴史の同時性」に関する下の図である。

歴史の同時性

 この図においては、一番上の線がアダムからアブラハムの孫ヤコブまでの二千年、二番目の線がアブラハムからイエスまでのユダヤ民族を中心とする二千年、三番目の線がイエス以降今日に至るまでのキリスト教を中心とする二千年を表している。そして数字によって区切られた各時代の様相は、互いに相似型をなしているのである。

 天照皇大神宮教においては、「神の摂理」や「終末」に類似する概念が直感的な言葉で語られていたが、それが一つの組織神学として体系化されることはなかった。一方で、統一原理においては「神の摂理」とは何であるかが明確に定義され、「歴史に働く神」という視点から、現代をメシヤが到来して人類の罪悪歴史が終わる時代、すなわち「終末」であると明確に説いたのである。

 最後に、終末論にはいくつかの類型があることを紹介しておきたい。
①黙示文学的終末論:神の超自然的な介入により古い世界が終わり、まったく新しい世界が到来することを待ち望むタイプの終末論である。エホバの証人が代表例である。
②革命的終末論:既存の秩序を「サタンの支配」として敵対視し、実力を持ってこれを倒して神の国を打ち立てようという終末論。米国のブランチ・ダビディアンやオウム真理教が代表的だが、ある意味では解放神学もこのタイプに入る。
③社会改革型終末論:既存の秩序は「サタンの支配」には違いないが、暴力的な方法によってではなく、信徒たちの伝道活動や社会活動を通して、徐々に神の国が作られていくと考えるタイプの終末論。家庭連合はこのタイプに入る。
④内面化された終末論:古い時代の終焉や新しい時代の到来は、世の中に具体的な出来事として展開するのではなく、キリストとの出会いによって自己の内面に起こる変化のことであるととらえるタイプ。社会に定着し成熟したキリスト教は、世の終わりを望まなくなるので、終末論的メッセージは内面に閉じ込められてしまうので、こうした解釈になる。

 天照皇大神宮教の終末論は、初期は③であったと考えられるが、教団として成熟して安定する中で、次第に④に近づいていったと考えられる。

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