神学論争と統一原理の世界シリーズ29


第七章 終末について

1.天変地異やハルマゲドンはあるのか?

オウム真理教の事件以来、「ハルマゲドン」(注1)に象徴されるような終末思想の危険性が指摘され、世間一般には「破壊願望」や「精神異常」と結び付けてとらえられるようになった。世の終わりや天変地異を予言した宗教はオウム以前にも数多くあったが、ただ破壊を信じて待っているというだけでは、それほど世間の非難を浴びることはなかった。オウムの特殊性はやはり、終末に起こる破壊を自らの手で引き起こそうとした点にあるのだろう。にもかかわらず、終末の到来を信じるすべての宗教団体が白眼視されるようになってしまった。

終末思想が生まれる背景
「ハルマゲドン」に象徴されるような破壊的な終末論は、ユダヤ民族の苦難の歴史の中で生み出されてきた。もともとユダヤ人たちは生きて歴史に働く神を信じ、その神がいつの日か自分たちを相次ぐ苦難の中から解放してくれる日を待ち望んでいた。しかし現実には全くその様な気配がないのを感ずると、しだいに奇蹟的な出来事による天地の刷新を待望するようになったのである。

このようにして生まれてきたのが、「黙示文学」と呼ばれる一群の預言書である。旧約聖書におさめられている「ダニエル書」のほかにも、紀元前二世紀ごろからさまざまな黙示文学が出現し始めた。そこには天変地異や超自然的な現象によって神が罪悪世界を滅ぼし、全く新しい世界が訪れるという希望が、幻想的なイメージで描写されている。有名なヨハネの黙示禄は、新約聖書における黙示文学の代表選手だ。

黙示文学の問題点としては、世界の滅亡が近づいており、それは避けられないものであるという決定論、自分達だけがその秘密を知らされていて生き残ることが出来るという宗教的エリート意識、現実世界は救い難い邪悪な世界であり、それが滅ぼされた後に神主権の新世界がやって来るという、極端に二元論的な世界観などが挙げられる。宗教社会学者の中には、このような黙示文学は抑圧された人々が現実から逃避するために抱いた妄想であり、そこには被抑圧者としての被害者意識と、その裏返しである一種の宗教的優越感が読み取れると主張する者もいる。

事実、黙示文学はとらえようによっては大変危険なものになるという歴史的な事例は数多く存在する。黙示文学の預言を熱狂的に信ずるセクトは、しばしば流血の反乱を起こしてきた。聖書の預言によれば、世の終わりの前触れとなるものは、試練と混沌であり、戦争、飢饉、疫病、そして自然災害があふれ、反キリストが現れるとされている。このため多くの狂信的なセクトが、その時代が抱える問題を最後の試練が来たことの証明と解釈し、教団に敵対する者たちを反キリストと同一視して攻撃するという、およそ宗教者らしからぬことを行ってきたのである。

しかし、終末すなわち世の終わりが来るという信仰が即、反社会性につながるというものでもない。実際多くの宗教が、神の働きによって不義の時代が終結し、善なる時代が到来することを説いている。終末論は宗教を膨張させる力を持っており、多くのセクト運動や新宗教は、終わりの日が近くに迫っているという熱烈な信仰から始まったのである。それは苦難の中にいる人々や、閉塞状態に陥った社会に対して「希望に満ちた未来」という宗教的ビジョンを提示してくれるからだ。事実、キリスト教自体がもともとはメシヤを待望するユダヤ教の一セクトであった。

終末論の解釈というものは、一歩間違えば重大な過ちを起こしかねない危険なものである。それがセクト主義や破壊願望と結びつけば、社会に害悪をもたらすだろう。その根本的な問題は、黙示文学に示されている「滅ぶべき罪悪世界」が自分の外側にのみあるととらえるところにある。それは現在の世界を愛し救おうという心よりは、むしろ憎み蔑む心を誘発し、自分たちの罪や欠陥を省みるよりは、むしろ神に選ばれたものとして限りなく自己を正当化する方向に向かっていく。

「滅ぶべき罪悪世界」はどこにあるのか?
黙示文学に啓示されている「滅ぶべき罪悪世界」は、実は私たち一人ひとりの心の中にこそあるのではないだろうか。「山中の賊を破るはやすく心中の賊を破るは難し」(注2)といわれるように、自分の内なる罪と戦うのは非常に厳しい道だ。だからこそ聖書はそれを激しい戦いの比喩で表現しているのである。

そう、聖書に予言されているハルマゲドンの戦いは、私たちの心中で起こる戦いの「象徴的な表現」なのである。確かに世の終わりには罪悪世界が滅びて、神中心の新しい世界が訪れるのであるが、これは世界の物理的な破壊によってもたらされるのではなく、私たちの心の中から罪悪を一掃していく精神的な戦いによってなされるのである。これが「統一原理」の終末論の中に私が見いだした核心部分である。それは人々の心を、破壊に対する恐怖ではなく天国に対する希望によって駆り立てる「救いのメッセージ」なのである。

<以下の注は原著にはなく、2014年の時点で解説のために加筆したものである>
(注1)ハルマゲドンはヘブライ語で「メギドの丘」を意味し、アブラハム系宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)における、世界の終末における最終的な決戦の地を表す言葉である。メギドは北イスラエルの地名で戦略上の要衝であったため、古来より幾度も決戦の地となったことから、「メギドの丘」という言葉がこの意味で用いられたと考えられている。日本語で言えば「天王山」や「関ヶ原」に近いイメージであろうか? この言葉はやがて、世界の終末的な善と悪の戦争や世界の破滅そのものを指す言葉として用いられるようになる。本来はアブラハム系宗教とは異なる新宗教(オウム真理教)などがこの言葉を用いるようになったのは、ある種の折衷によるものであると考えられる。
(注2)中国の明代の儒学者・王陽明(おうようめい、1472 – 1529年)が「与楊仕徳薛尚誠書」で語った言葉。山中に立てこもっている賊を討伐するのはやさしいが、心の中の邪念に打ち勝つことはむずかしい。自分の心を律することは困難であるというたとえ。

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