書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』19


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第19回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
 櫻井氏は祝福の意義に続いて、ごく簡単に万物復帰の意義について解説する。
「万物に対する主権を復帰するということが万物復帰の活動となる」(p.70)という櫻井氏の説明は間違いではないが、これだけでは一般の読者はその意味がさっぱり分からないであろう。あるいは一般の読者が受け入れがたいように、わざと分かりにくく書いているのかもしれない。何度も言うようだが、特定宗教の教説について解説する際には、その宗教団体が公式に発表している文献を基本に解説するのが宗教学者としての最低限の礼儀というものである。「万物復帰」の意味に関する基本的な資料としては、光言社から発行されている『40日研修シリーズNo8 復帰摂理と万物』(1990年)を簡単に入手できるし、『原理講論』は、後編の復帰原理の中で「メシヤのための基台」と関連付けて「万物復帰」の概念について説明している。これらを読めば、「万物復帰」は一般的な宗教儀礼である「供え物」に関連したものであり、現代においては「献金」に該当することは宗教学者であれば理解できるはずである。

 なお、統一原理における万物献祭の意味を宗教学的に理解するために、このブログでは「宗教と万物献祭」と題して7回のシリーズでこのテーマについて解説しているので、関心のある方は以下のURLを参照していただきたい。

http://suotani.com/archives/1171

 万物復帰とはあまり本質的に関係のない記述なのだが、この概念を扱った部分で櫻井氏は以下のような不可思議な説明をしている。
「しかも、先に述べた人間の堕落におけるアダムとエバが、韓国と日本の立場であるとされる。堕落エバはアダムに『負債』があるため、日本が韓国に『侍り』、人材と資金の供給を行うのは当然とされる。とりわけ、『エバ国家』のエバたる日本人女性が合同結婚式において、韓国男性と祝福を受け、韓国で生活することが好ましいとされ、韓日の国際結婚によって、両国の『恩讐が清算される』といわれている」(p.71-72)

 これのどこが「万物復帰」の説明なのか理解に苦しむところだが、敢えてあげれば「エバ国家」である日本がアダムである韓国に資金提供をしなければならないという部分であろう。統一教会において日本が「エバ国家」や「母の国」と呼ばれ、韓国が「アダム国家」や「父の国」と呼ばれてきたことは事実である。そのため、日韓の国際祝福が奨励されてきたことも事実であるが、妻が夫に万物を貢がなければならないという意味で両国の関係が説明されたのを私は聞いたことがない。そもそも、「妻が夫にお金を貢ぐ」というアナロジーでは、ダメ親父のために苦労する妻のような悲惨なイメージであるため、信徒たちの献金意欲を鼓舞することなどできないであろう。日本において統一教会の信徒が熱心に献金をしてきた動機は、韓国に対する妻の立場というよりは、世界に対する母の立場である。ちょうど母親が赤ん坊に母乳を与えて育てるように、自己犠牲的な精神で世界宣教のために資金と人材を投入し、世界の国々を養育するという使命に誇りを感じながら、統一教会の信徒たちは熱心に献金をしてきたのである。すなわち、「世界の母の国」というアナロジーが日本の信仰の原動力となってきたのである。

 蛇足ながら、櫻井氏の言う「恩讐」は「怨讐」の間違いであると思われる。
「統一教会の教説」の最後の部分で、櫻井氏は「五 統一教会の宗教文化に関する検討」という独立した考察を行っている。ここで彼は、2009年2月7日に國學院大學で開催された「東アジア新宗教国際研究会議――東アジア新宗教研究と情報リテラシー」と題する国際会議で、韓国の鮮文大学の二人の教授が発表した論文の内容に触れている。彼が関心を持った部分を引用してみよう。
「既に筆者は、『原理講論』の特異な堕落論や救済論が文鮮明の統一教創設に先行して、李龍道派、白南注・金聖道等の入神の教え、イスラエル修道院の金百文が類似の教説を展開していたことを述べているが、鮮文大学校の研究者たちはこの点を積極的に認めようとしている。従来は、統一教会が自らの独自性・創唱性を強調するあまり、統一教会批判派や韓国キリスト教史家(閔 1981:354-366、436-437)が指摘した前史を一切否定するか、部分的に承認するだけだった。そのことを知っている筆者としては隔世の感があり、前史研究を統一教会はどのように利用しようとしているのか、その意図が十分に理解できないでいる。」(p.75)

 鮮文大学校の梁編承教授はこの会議で発表した論文の中で統一教会の前史を形成するキリスト教系新宗教として、「①白南柱を中心とする元山の接神派」「②金聖道の聖主教会」「③許虎彬の腹中教」「④黄國柱の新エルサレム巡礼」「⑤金百文のイスラエル修道院」を挙げているという。これらは統一教会の修練会における「主の路程」の講義の中で登場する名前であり、韓国において再臨主を迎えるために準備された「神霊集団」として紹介されている。またこれらの人物や教団には文鮮明師自身が説教の中で言及しており、日本語で読める文献としては文鮮明・韓国歴史編纂委員会編著の『真の御父母様の生涯路程』と題するシリーズの中にその名前が登場する。ただし、教会の文献では、「許虎彬」は「許孝彬」と表記されている。

 これらの「神霊集団」を統一教会の「前史」と呼ぶのであれば、鮮文大学校の梁編承教授が発表した内容は伝統的に統一教会の内部で教えられてきた内容と基本的に異なるものではない。異なる点があるとすれば、文鮮明師の説教だけでなく、一般的な韓国キリスト教史の資料に基いて議論されている点であろう。こうした教団と統一教会に何らかの関わりがあることは、統一教会の公式の教えの一部だったのであり、私の知る限りでは、その関係を「一切否定」したことはない。統一教会がこれらの「神霊集団」との関係において否定してきたことは、主に以下に述べる二つのポイントである。

 まず、これらの「神霊集団」の教えの一部が統一教会の教えと類似していたことは認めているが、それが「盗作」や「剽窃」であることは否定している。文鮮明師が解き明かしたという『原理講論』の内容が金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作であるという批判は、伝統的に「反対牧師」たちが統一教会信徒を脱会させるときに用いる常套手段であった。櫻井氏もその伝統に従い、「金百文が執筆した『聖神神学』『基督教根本原理』『信仰人格論』のうち、『基督教根本原理』には創造原理、堕落原理、復帰原理の記載がある」(p.76)、「『基督教根本原理』は844頁に及ぶ大著であり、『原理講論』の骨格とその独特な神学的検討は『原理講論』以前に十分になされている(金百文 1958)」(p.77)と、反対牧師とほぼ同様の「盗作」の主張を行っている。

 これは『原理講論』の出版が1966年5月1日であるのに対し、『基督教根本原理』の出版が1958年3月2日であるため、金百文氏の著作の方が先だという議論であるが、『原理講論』の元になった『原理解説』はそれ以前の1957年8月15日に制作されている。それに対して金百文氏の『聖神神学』は既に1954年3月2日に出されているから『原理解説』よりも前だと向こうは反論するのだが、『聖神神学』の内容には『原理講論』との類似点はほとんど見出せない。さらに、『原理解説』の元になった『原理原本』は1952年5月10日に作成されているので、『聖神神学』よりも先であり、結局は文鮮明師の教えの方がオリジナルであるという結論になるのである。この点に関しては、「統一教会Q&A」というサイトに詳しく説明されているので、関心のある方は以下のURLを参照してほしい。

http://ucqa.jp/archives/111
http://ucqa.jp/archives/263

 統一教会の見解では、これらの「神霊集団」の教えの一部が統一教会の教えと類似しているのは、再臨主を迎えるために準備された集団であったために、最終的な真理である統一原理の内容を神から部分的に啓示されていたためであるとみなしている。

 二つ目のポイントは「血分け」疑惑の否定である。櫻井氏の指摘する通り、これらの教団の中で黄國柱の主導した運動は「霊体交換」と称して「血分け」「混淫」と批判されるような行為が行われていたという。閔庚培著、沢正彦訳『韓国キリスト教史』(1974)の中でも、黄國柱に対してはそのような評価がなされていた。「血分け」とは一般に教祖との性的通過儀礼によって血統を浄化するための宗教儀式であるとされているが、韓国のキリスト教系新宗教の一部にはこうした行為を実践したものがあったようで、統一教会の教えもそれと同様のものであると批判されることがあったので、統一教会はそうした疑惑を虚偽であり誹謗中傷であるとして一切否定してきたのである。

 第2章の最後に櫻井氏は、「本書では、統一教会を韓国社会におけるキリスト教伝統における一つの土着化の例と見るし、日本においても土着化に成功しつつあるキリスト教系新宗教として取り上げないわけにはいかないと考えている」(p.79)と述べている。珍しく、この点においては私の見解と櫻井氏の見解は一致している。

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