神学論争と統一原理の世界シリーズ33


第八章 宗教の現在と未来

3.キリスト教はなぜ日本に根づかないのか?

キリスト教の「グレート・センチュリー」と呼ばれた十九世紀以降、世界史はまさしくキリスト教文化圏の国々によって主導されてきた。ここ二世紀の間、近代化とはキリスト教文化圏である西洋の文化・制度を吸収することを意味したのであるし、キリスト教は信徒の数およびその生活水準において、群を抜いて世界一の宗教となった。(注1)

失敗に終わった日本宣教
しかし日本という国は、多大なる宣教の努力にも関わらず、いまだにキリスト教とは疎遠な関係にある。日本は東アジアの中では最も近代化され西洋化された国でありながら、いまだにキリスト教徒の数は人口の1パーセントにも満たない。(注2)キリスト教は日本においては依然として少数派であり、「バタくさい」という一般的な言い回しにも表現されているように、「外国の宗教」とみなされているのである。

二つの異なる文化が出合おうとするとき、そこには葛藤が生ずるものである。したがってキリスト教という西洋の宗教が日本に伝えられる過程においても、さまざまな文化的相克を生みだし、それが宣教の大きな障害となった。これは過去数世紀にわたる多大なる宣教の努力が、ほとんど実っていないという事実からもうかがい知ることができる。

異文化圏から伝わってきた宗教が、その地の文化的土壌になじんで、その国独自の宗教形態を発展させていく過程を「土着化」という。すなわち、キリスト教が日本に土着化するということは、キリスト教がその宗教的本質を保ったまま、日本人が文化的異質性や抵抗を感じないような、「日本的な」宗教となる事を意味するのである。したがってキリスト教が「バタくさい」ということは、それがいまだに土着化に成功していないということを意味する。

今日でも「土着化」という言葉を「宗教的伝統の変質」や、いわゆる否定的な意味合いでの「シンクレティズム(習合・折衷主義)」と同一視して蔑視する人々がいる。特にキリスト教においてはこういう考え方が根強く残っている。しかしそれは、十九世紀以来の西洋的な文化侵略主義の遺物であり、宗教と文化の関係についての無知から来るものである。現在西洋の宗教と考えられているキリスト教といえども、もともとはユダヤ的だったものがローマの文化に土着化し、それがさらにゲルマン民族の文化に土着化してでき上がったものだ。その間にキリスト教の内容は大きく変化した。それが東洋に伝えられれば東洋的になることは自然の理であり、西洋人はそれを非難できる立場にはない。

フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル

しかし実際問題としてキリスト教を日本に土着化させるということは、容易ならぬ仕事であった。この仕事を最初に手掛けたフランシスコ・ザビエルらのイエズス会宣教師たちは、戦略的には状況適応型のアプローチを取った。すなわち日本文化との相克をできる限り避けるように配慮しながらキリスト教を広めようとしたのである。しかし結果的には多くの殉教者を出し、宣教は失敗に終わった。日本における宣教活動の困難は、遠藤周作の小説『沈黙』の中で想像力豊かに表現されている。

遠藤周作

遠藤周作

『沈黙』

『沈黙』

日本という「沼地」に根づかないキリスト教
日本に不法侵入したイエズス会の司祭ロドリゴとの会話の中で、日本の役人は次のように述べている。「ある土地では稔る樹も、土地が変われば枯れることがある。切支丹とよぶ樹は異国においては、葉も茂り花も咲こうが、我が日本国では葉は萎え、つぼみ一つつけまい。土の違い、水の違いをパードレは考えたことはあるまい」(『沈黙』より)
また布教に敗北して棄教した老宣教師フェレイラはつぎのように語っている。「二十年間、私は布教してきた」(中略)「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ(中略)この国は沼地だ。やがてお前にも分かるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」(『沈黙』より)

遠藤の小説『沈黙』における沼地のイメージは、日本の文化的土壌にキリスト教を根づかせることの難しさを巧みに表現した比喩である。しかしキリスト教が日本に土着化できなかった責任の一端は、どうもキリスト教自体にもありそうだ。キリスト教はすべての文化を超越する普遍的な真理であると自負しながらも、実際には西洋の文化を神に祝福されたものとし、それ以外の文化や宗教については「罪深いもの」「次元の低いもの」として否定的な態度をとる場合が多かったからだ。それだけに土着の価値を重んじる日本人にはどうしても違和感を与えざるをえなかったのだ。このことはキリスト教が日本文化を研究して、真に日本人の精神や文化になじむようなキリスト教の表現方法を開発するのを怠ってきたということだ。

キリスト教が土着化した韓国
しかし同じ東アジアの国でも、キリスト教が見事に土着化している国がある。お隣の韓国である。韓国のクリスチャンは今や人口の二四パーセントを占め(注3)、特に都市部での躍進は目覚ましい。韓国のキリスト教は泥くさくて、西洋式シャーマニズムのようだと批判する人もいるが、土着化という観点からすれば立派な業績をあげているといえる。韓国は西洋よりも日本との文化的親和性が強い。その韓国にキリスト教が土着化したということは、日本のキリスト教もそこから何か学ぶべきものがあるはずだ。

これら韓国のキリスト教は在日韓国人のコミュニティーを中心に日本にも広まっている。しかしその信仰はなかなか民族の壁を越えて日本人の間にまでは広まって行かない。日帝時代にはキリスト教が抗日独立運動の精神的支柱となったわけだし、ニューヨークでも韓国人のキリスト教会は「エスニック・チャーチ」と言われて、「教会」と「民族の寄り合い」という二つの機能を果たしているわけだから、それを要求するのは難しいのかもしれない。

日本にキリスト教信仰を土着化させた統一教会
しかし韓国生まれのキリスト教で、民族の壁を超えて広く日本人の間にまで広まったものが一つだけある。それが統一教会だ。日本の統一教会の教会員の数は、韓国生まれのキリスト教会としては驚異的な数字である。このことはキリスト教が日本に土着化するためのモデルとしては、統一教会が最も有望株であることを物語っている。

それでは、統一教会がキリスト教を日本に土着化させることに成功したポイントはどこにあるのだろうか? それはキリスト教信仰と東洋思想のみごとな融合である。その神観や人間観には陰陽思想などの東洋的伝統が受け継がれているし、何よりも家庭倫理や家族主義がその神学の中心に据えられていることは、東アジアの文化圏では受け入れやすい。もちろんキリスト教にも家庭倫理は存在するが、こと救いに関しては個人主義的な傾向が強く、生涯独身の修道生活の方が世俗の生活よりも高尚なものであると考えられているのである。

さらに重要なのは先祖の問題だ。先祖崇拝や先祖供養を受け入れるかどうかは、長い間キリスト教宣教師たちの大問題であった。一応それを「文化・風習として、否定はしない」という寛容な態度を取ったとしても、神学的には積極的な意味を見いだせず、スッキリしないのが現状だ。一方で「統一原理」は血統と罪の間に密接な関係を見いだしているから、仏教で「先祖の因縁」として理解されてきた内容を、神学的に整理し、包含することができる。そして「神に対する信仰」と「先祖の供養」を矛盾なく一つにまとめることができたのである。つまり統一教会の提示したキリスト教は、日本人にとって分かりやすく、受け入れやすいものだったのである。

キリスト教は西洋的な衣を脱ぎ捨てて、福音の本質のみをアジアに土着化させ、アジアの地において独特な花を咲かせるのでなければ、アジアで市民権を得ることはできない。自らの文化的伝統に執着して統一教会を異端視してきたキリスト教会は、そろそろそのことを学ばなければならないのではないだろうか。

<以下の注は原著にはなく、2015年の時点で解説のために加筆したものである>
(注1)1997年当時の統計では、世界のキリスト教人口は19.7億人、イスラム教合計11.5億人で、キリスト教は世界一の宗教であった。これは21世紀になった現在でもさほど変わっておらず、百科事典「ブリタニカ」年鑑2009年版 「世界の宗教人口割合」によれば、世界のキリスト教人口は約22.5億で全体の33.4%を占め、イスラム教の15億人(22.2%)を大きく引き離して世界一の宗教の地位を保っている。
(注2)文化庁が編集した『宗教年鑑』によると、平成24年度の日本のキリスト教系宗教の信者数は1,920,892人で、総人口の1.0%であるとされている。日本のキリスト教人口を数える際には、いわゆる「正統」とされるカトリック、プロテスタント、ロシア正教などしか数えないのか、異端視されている「キリスト教系新宗教」も含めるのかによって数が大きく異なることがある。
(注3)24%は1997年当時に言われていた数字である。韓国統計庁が2005年発表したところによると、韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%。総人口のうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%となっている。プロテスタントとカトリックを合わせたキリスト教全体では29.2%となっていて仏教より信者の数が多い。

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