実況:キリスト教講座29


統一原理の神観について(3)

 一番最初が、性相と形状という問題です。これに関しては、私の著書『神学論争と統一原理の世界』の39ページで語っておりますので、ちょっとそこを読みながら話をしてみたいと思います。第1章の3ということで、「神はどんな姿をしているのか?」という分かりやすいタイトルをつけて書いてあります。

「皆さんは『神の姿を想像してみてください』と言われたら、どんな神を思い浮かべるだろうか? あの世に行ったら会える、白い衣を着て髭を生やし、頭の上に輪っかの乗ったおじいさんだって? 気持ちは分かるが、伝統的な神学によれば、その答えは落第だ。なぜって神は無形なのだから、たとえあの世に行っても目に見えない。」(『神学論争と統一原理の世界』p.39)

 とても漫画チックな神様のイメージとしては、霊界に行ったら会える、白い衣を着て、髭が生えていて、頭の上に輪っかの乗ったおじいさんの姿をした、そういう神様に出会えるんじゃないかと信じている人も、もしかしたらいるかもしれませんね。私がこの本を書いたときに、何を根拠にこんなことを書いたかというと、私がまだ東工大の学生だった頃のことです。伝道をしていたのですが、東工大というのは男子学生の多い大学ですから、キャンパスの中で伝道すると男ばっかりなのですが、ときには女性も伝道するためにほかの大学に出かけて行って、いろんなところで伝道しましたね。東工大というのは大岡山という駅の近くにあるんですが、ちょっとずれて旗の台あたりまで行きますと、昭和大学という医学系の大学がありまして、そこでは女性がアンケートに答えてくれるわけです。そこで、看護科に行っていたあるクリスチャンの女性と出会ってですね、神様の話にいきなり相対してくれたので、ビデオセンターに通うようになったわけです。その人をしばらく伝道しておりまして、結局最後は復帰されなかったのありますが、その人はもともとキリスト教の信仰を持っていたもんですから、いろんな会話をしたんです。

 私は当時、大学2年生だったと思いますが、私よりもその人の方が年上でしたね。でも内面はとても純粋で、少女のような心を持った方でありましたけれども、その方がキリスト教の教会に通っておりました。そしてその牧師さんとの会話を私にお話ししてくれたことがあったんです。その会話がどういう内容だったかというと、彼女は「自分は神様に出会いたい、神様に出会いたいと思っていた」と言うんですよ。そしてある日、神様に出会ったんだというわけです。どのように出会ったかと言うと、実は夢の中で出会ったというんです。その夢の中で出会った姿がまさに、こういう姿だったというのです。すなわち、おじいさんで、白い衣を着て、頭の上に天使の輪が乗っていたというのです。

 ということで、彼女は朝、夢から目覚めて本当に喜んで、「いやー、神様の姿をついに見た!」ということで、牧師さんのところに行って、嬉々として報告をしたそうであります。「牧師さん、ついに神様を見ました! 私はこの目で見ました!」と言うもんですから牧師さんは驚いて、目に見えるわけないのにどうして見たのかと思ったら、「夢の中で見たんです。その夢の中で現れた神様の姿はこういう姿で、白い衣を着て髭が生えて、頭に輪の乗ったおじいさんでした。本当に感動しました」と、彼女は報告したらしいです。するとその牧師さんは、さぞや喜んでくれるだろうと思って報告したにもかかわらず、ちょっと怪訝な顔をしてるわけですね。そして非常に悩んで、何と言ったのかというと、その人の名前は坂井さんといったのですが、「坂井さん、それは本当の神様じゃないと思うよ」と言ったというのです。

 彼女は「ガーン」とショックを受けたらしいのですが、「どうしてですか?」と言うと、「だって神様は無形なんだから、たとえあの世に行こうと、夢であろうと、神様が目に見える形をとって現われるということは絶対ないんです」と言われちゃったんです。そりゃあ、神様に出会ったという感動の証しをしたのに否定されてしまったわけですから、非常にショックですよね。私はその話を聞きながら、「この牧師バカだな。純粋な女性信徒が感動して神様との出会いの証しをしてるんだから、そんな神が無形だとか硬いこと言わないで認めてあげればいいのに、なんで否定するんだろう」と思っていました。その牧師の人格的欠陥だと思っていたんですよ。しかし、キリスト教神学というものをよくよく勉強すると、キリスト教の神学校で教育を受けて神学を学べば学ぶほど、こういう神の姿に対する抵抗が大きくなって、こういう形ある神様というものは受け入れられなくなっていくということが分かったんです。つまり、牧師の個人的欠陥ではなくて、キリスト教神学そのものが抱えている問題、すなわち、神を形にして表すということに対するアレルギーや反発というものがあるということが分かったんです。

 ユダヤ・キリスト教の伝統においては、神が無形であることが非常に強調されています。これは基本的には、ユダヤ教が世界を超越した創造主である神を信じて、その神が偶像崇拝を禁じて自分の像を刻んではならないと命じたことに根本的な原因があると思われるわけですが、キリスト教の神学ではこれにさらに拍車がかけられているわけであります。それはなぜかというと、キリスト教の神学がギリシア哲学の影響を強く受けたからであり、プラトンの「善のイデア」の概念や、アリストテレスによる世界の究極的原因者としての「不動の動者」の概念が、神と同一視されてそのまま導入されたためだということになります。

 さてここで、いきなりギリシア哲学の影響という話が出てきました。皆さんはキリスト教というと、旧約聖書と新約聖書に基づいたものであると理解していらっしゃると思います。どうしてキリスト教の神学がギリシア哲学などというものから影響を受けたのかということを疑問に思うかもしれませんが、実は神学校などに行ってキリスト教の神学を学びますと、キリスト教というものは旧約聖書と新約聖書だけに基づいているものではなくて、特に神学の部分におきましては、いわゆるギシリア哲学、プラトンやアリストテレスの思想が非常に大きな影響を与えているということが分かるわけであります。どうしてそのような影響を与えたのかということは、この地図を見ていただければ分かると思います。これはイエス様当時のローマ世界の地図であります。

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 ここがエルサレムでありますが、ここでキリスト教が発生いたします。当時はユダヤの国はローマ帝国の属国の立場であり、ピラトという総督が治めていました。当時、ユダヤ教というのは世界でも珍しい一神教の文化圏であり、ローマは多神教の世界でした。このローマ帝国の中では、ユダヤの国は非常に小さなマイナーな立場でありました。イエス様が生まれたのはこのユダヤの国で、最後に十字架にかかったのがエルサレムでありました。この茶色く塗った部分は何であるかというと、当時のローマ帝国の領地です。この地中海を囲むローマ帝国全体が一つの主権のもとにあったわけでありまして、非常に大きな文明圏を作っていたわけでありますが、新約聖書に出てくるダマスカス、アンテオケ、タルソス、エフェソス、ローマなどの都市は、ほとんどがこのローマ帝国内の都市です。そこに住む信徒に宛てた手紙が書かれているということは、キリスト教はユダヤからローマ帝国の内部にどんどん広がって行ったということが分かるわけです。そうすると、キリスト教が伝えられていく過程におきまして、このヘレニズム文明と出会っていく、そしてヘレニズム文明と混ざり合っていくことによって、実はキリスト教というものが洗練されていくと同時に、すなわちキリスト教神学が学問として発達していくと同時に、もともとはユダヤ教的な伝統を持っていたキリスト教が変質していったということも事実なんですね。つまり、ヘレニズム文明の影響を受けて、キリスト教神学の中にプラトンやアリストテレスの考え方がどんどん入ってくるということが起こったわけです。これが初期キリスト教神学の背景であるわけです。

 特に聖書の教えというのは、たとえ話や戒めといったものが多く、聖書にはあまり哲学的な内容というのはありません。ところが、当時の社会に対して説得力を持つためには、プラトンやアリストテレスのような哲学的体系を用いて、知的に洗練された内容の方が説得力があったので、いわばキリスト教が市民権を得るために、こうした哲学者の考え方をどんどん導入して初期のキリスト教神学を作っていったといっても過言ではありません。そういう意味で、初期のキリスト教の思想というのは、実は聖書の教えとギリシア哲学のブレンドであったわけです。

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