実況:キリスト教講座14


キリスト教と日本人(2)

 初めに切支丹時代でありますが、これは1549年から1638年までの期間です。

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 きっかけは、何といっても1549年に、フランシスコ・ザビエルという人が鹿児島に上陸して、キリスト教の宣教を始めたということであります。このフランシスコ・ザビエルという人は、イエズス会というキリスト教の修道会のメンバーでありました。このイエズス会というのは、イグナチオ・デ・ロヨラという人が立てた修道会でありますが、その創設メンバーの一人であり、ロヨラの盟友であった人がフランシスコ・ザビエルでありました。アジアの宣教に対してロヨラの全面的な信頼を受けて、日本だけでなくインド、中国と、アジア全体に福音を宣べ伝える使命をもってやってきた人でありました。

イグナチウス・デ・ロヨラ

イグナチウス・デ・ロヨラ

 このイエズス会という組織の特徴は、もともとカトリックの修道会であるわけですが、それまでの伝統的な修道会というのは、どちらかというと山にこもって修行したりお祈りしたりするタイプのものが多かったんでありますが、イエズス会はそういう「こもる」タイプの修道会ではなくて、どんどん外に出て行って、キリストの福音を宣べ伝えるということを第一の使命とした修道会でありました。軍隊のような組織で、どこにでも出かけて行ってキリストの福音を宣べ伝えることを究極の使命としていた修道会であったわけです。だから、アジアまではるばるやってきてみ言葉を宣べ伝えたということなんですね。

 日本に対してイエズス会がとったアプローチの特徴は、「状況適応型のアプローチ」と呼ばれるものでした。「状況適応型のアプローチ」とは何でしょうか? このときはキリスト教の世界宣教が盛んな時期でありました。そのときの宣教の対象、すなわちどういう国や地域に出かけて行ったかによって、宣教方法は大きく二つに分かれました。そのうちの一つのやり方を、「十字軍型のアプローチ」と言います。これは、宣教地の土着の文化を根絶やしにして、上から一方的に、半ば強制的にキリスト教を植え付けてしまうというやり方です。南米や中米やアフリカなどの未開の民族に対して、このような手法がとられました。ほぼ「文明」と呼ばれるようなものが存在していない未開人に対して、キリスト教を上から一方的に受け入れさせて、洗礼といえば強制的に水をぶっかけるくらいの勢いでキリスト教徒にしていくというやり方です。こういうやり方は南米やアフリカでは功を奏して、だからこそいま南米のほとんどがカトリックになっているということからも分かるように、そうした宣教のやり方が、数的には非常に多くのキリスト教徒を生み出したということはあるわけです。

 ところが、アジアにやってきた宣教師たちが発見したアジアの状況、とくに中国とか日本などの国に住む人々は、南米の未開の民族やアフリカの部族とは違っていたわけです。キリスト教は知らないけれども、異教徒でありながら、かなり高度な文明を既に持っていたわけです。文字はあるし、官僚制度はあるし、しっかりした政府はあるし、仏教という深遠な教えはあるし、儒教もあるしということで、ちょっと手ごわい相手なんですね。つまり、一気にキリスト教化できるような状況ではない。しかも、自分たちは少数派でただの宣教師であって、そこには既に確立した社会があったわけですよ。そういう所に、「十字軍型だ」と言って、上から一方的にキリスト教を植え付けるというのは、どう考えたって不可能だったわけです。

 そこで彼らは「状況適応型のアプローチ」というのをとりました。これは何かというと、その宣教する地域に存在するいわゆる土着の文化や土着の宗教というものを頭ごなしに否定しないで、「それも良いですね。でも、こういうのもあるんですよ。ヨーロッパにはこんなに素晴らしい文明がありますよ。これは皆さんのお役にたちますよ。皆さんが持っている先祖崇拝や仏教を否定しに来たんじゃないんですよ。」という形で、柔らかく、摩擦が起きないような形でキリスト教を広めていこうというアプローチの仕方、これを「状況適応型のアプローチ」と言うわけです。

マテオ・リッチ

マテオ・リッチ

 例えば、マテオ・リッチという人は中国に入りました。彼は何から始めたかと言うと、一生懸命に中国語を勉強して、漢字を習って、中国の古典を学んで、中国人になりきろうとしたんですね。そのようにして中国の文化に馴染んでから、いかにキリスト教を中国の文化を発展させる素晴らしいものとして中国人に受け入れさせていくかを、戦略的に考えたわけです。このようなやり方、文化的な摩擦を避けて伝えようとするやり方のことを「状況適応型のアプローチ」と言うわけです。

 さて、ザビエルは初めインドや東南アジアで布教していたんですが、あるとき「アンジロー」または「ヤジロー」と呼ばれる日本人に偶然出会って、彼の知的能力の高さに驚きます。日本人というのは素晴らしい、もしこのアンジローみたいな人ばかりが日本人だとすれば、これはまさしく神が準備した民族に違いないと思って、日本宣教を決意したと言われています。そしてアンジローは洗礼を受け、日本人キリシタン第一号となります。実はアンジローは人を殺してしまったという良心の呵責に苦しんでいて、ザビエルに告白をしてキリスト教徒になったと言われています。このように、海外で出会った日本人アンジローが最初のキリシタンになり、そして日本人の持っている潜在力に大きな可能性を見出したフランシスコ・ザビエルが、鹿児島に上陸して宣教を始めたというのが、日本におけるキリスト教の始まりということになります。

 ザビエルは鹿児島や山口、大分などで2年余り滞在して宣教した後、じゃあ後は任せたよということで日本を離れ、もう一度インドにわたって、そこからさらに中国の宣教を目指して出発したわけでありますが、その途中で病気で亡くなってしまいます。しかし、2年余りにわたってザビエルが一生懸命に宣教して蒔いた種というのは、やがて日本のキリスト教として花を咲かせることになります。その後もトルレス、フロイスなどのイエズス会宣教師が活躍して宣教を勧めます。トルレスはザビエルやアンジローと一緒に鹿児島入りした宣教師で、ザビエルの盟友でした。

ルイス・フロイス

ルイス・フロイス

 1563年に来日した宣教師フロイスは、織田信長に大変気に入られて、信長の保護のもとで活動しました。この人は非常に貴重な資料を残しております。『日本史』(ポルトガル語で、Historia de Iapam)という本を書いていますが、当時の戦国時代の状況を外国人宣教師の目を通してつぶさに観察してローマに報告しています。彼は直接織田信長に会い、豊臣秀吉に会って、日本の統治者はああだこうだという記録を残しています。それが残されているので、当時の日本のことが分かるんですね。豊臣秀吉などは、とても背が低くて醜い男だったと書かれています。

 イエズス会の宣教師の中には、日本人に対して批判的な人も一部いましたが、非常に熱心に宣教した人々は、日本民族を大変高く評価しました。礼儀正しいし、善良だし、略奪や乱暴をしない素晴らしい民族だということで、これぞまさに神が準備した民族に違いないと評価していたわけです。

 当時の宣教師は、日本に対して非常に希望的というか、楽観的でした。日本はフィリピンのように宣教の大勝利の地になるかに思われました。当時、宣教が成功しているところの一つがフィリピンであり、そこでは毎日のように多くの人々が洗礼を受けてクリスチャンになっていました。楽観的な宣教師は1577年にローマに手紙を書いて、「もし十分な数の宣教師さえいれば、日本全体が10年間でキリスト教化されるであろう」と報告しています。これはまさに神が準備した民族であり国であるという感覚をもって、宣教を始めたということです。

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