実況:キリスト教講座07


キリスト教について学ぶ意義(7)

 さらにユダヤの律法も、キリスト教がユダヤ教から独立して世界宗教へと脱皮していくために、これを無益なものとして否定する必要があったわけであります。もし、キリスト教というものが歴史の波の中にふっと現れてパッと消えてしまうような一時的な新興宗教に終わったとしたら、おそらくユダヤ人にはほとんど被害はなかっただろうと思いますが、ユダヤ教を母体として誕生したキリスト教が、ユダヤ教をはるかに凌駕する世界宗教にどんどんどんどん発展していくわけですね。そしてローマ帝国の中でどんどん広がっていくわけであります。そうすると、この新約聖書と共に、クリスチャンの増大と共に、歪んだユダヤ人のイメージが全ヨーロッパに広げられていくということになるわけであります。

 つまり、ユダヤ人側からすれば、新約聖書という自分たちに対する悪宣伝に満ち満ちた本が世界のベストセラーとなって、悪口を世界中で言われているというような状況になってしまったわけです。最終的には、ヨーロッパ全体をキリスト教が支配するような社会になると、ユダヤ人はキリスト教社会の中で迫害の対象となり、多くの不当な弾圧が行われるようになっていったわけです。

 たとえば11世紀には、十字軍の兵士がヨーロッパの各地でユダヤ人を殺害しております。本来はイスラム教徒をやっつけるための兵士が十字軍なんでありますが、もともとユダヤ人に対する反感を持っていたので、シナゴーグを襲ってユダヤ人を皆殺しにしたりしました。14世紀にヨーロッパでペストが大流行した際に、多くのユダヤ人が毒を撒いたという疑いをかけられて処刑されるというような、いわれない迫害を受けてきたわけです。

 このように、あまりにもユダヤ人がヨーロッパで迫害されるものですから、なんとか独立したユダヤの国を持ちたいということで、1897年にテオドール・ヘルツルという人が第1回シオニスト会議をスイスのバーゼルで開催して、世界シオニスト機構が出発します。そして、もう一度あの乳と蜜の流れるカナンの地、すなわちパレスチナの地にユダヤ人の国を建てようということを決意して、そこに世界中に散らばったユダヤ人たちが入植を始めるわけです。

テオドール・ヘルツル(1860-1904)

テオドール・ヘルツル(1860-1904)

 ユダヤ人は金融で儲けておりましたので、お金の力でもってその土地を買うということを始めたわけです。あのパレスチナの地は当時はオスマン・トルコの支配下にあったわけでありますが、1917年に第一次世界大戦でトルコが敗れることによって、イギリスが委任統治するようにになります。そうすると今度はイギリスの支配下になったので、シオニズム運動の波に乗って多くのユダヤ人がそこに入って行って、どんどんユダヤ人の人口が増えて、あとは主権を宣言して国を建てればいいというくらいまで、多くのユダヤ人が住みつくようになったわけです。

 これが実はパレスチナ問題の背景にあるわけですが、では国をすぐに建てることができたかというとそうではなくて、最後の試練がありました。それが何かといえば、1941年から45年にかけて起こった第二次世界大戦の間に起きた「ホロコースト」です。ナチス・ドイツの政権により、多くのユダヤ人が虐殺されるということが起こりました。これは国を建てる前の最後の試練であったわけです。

 ヨーロッパのクリスチャンたちが、自分たちの中に「反ユダヤ主義」という不当な偏見があるということに気付いて、これはいけないことなんだという深刻な反省がなされたのは、実はこのホロコーストの事実が明らかになった第二次世界大戦後のことであったわけです。

アウシュビッツ

 この写真は何かというと、アウシュビッツの強制収容所が解放された後に発見されたユダヤ人の死体の山、また山です。大戦前ヨーロッパにいたユダヤ人のうち、およそ600万人が殺害されたということです。600万人というのはすごい数ですよね。このことを通して、これは単にヒトラーの問題だ、ナチスの問題だ、ドイツの問題だということで片付けられない世界がキリスト教の中にあったわけですよ。自分たちも同じようにユダヤ人に対して迫害をして、非人道的な扱いをしてきた。それがたまたまホロコーストという極端な形で現れたけれども、これは私たちも同じように持っている罪だと感じたわけです。

 すなわち、この600万人の犠牲の上に、ユダヤ人は迫害を受けることのない自分たちの安住の地として、イスラエルを建国することを世界に認めさせたわけです。それを誰も否定できなくなってしまった。そのことの故に、国連決議でもってイスラエル建国というものが認められていくという歴史があるわけです。

 こういう話をなぜ長々としたのかというと、要するにクリスチャンという人たちは、『新約聖書』というフィルターを通してしかユダヤ人を見ることができないという、基本的な精神構造があるわけです。すなわち、自分たちの信じている宗教の聖典の中でユダヤ人が悪く描かれているわけですから、基本的にまずそのイメージが頭の中にインプットされて、それを現実に存在するユダヤ人に投影して判断する。まあ、人間の偏見というものはだいたいそういうものですね。このように、クリスチャンは自分の先輩宗教であるユダヤ教に対して、ある特定の固定観念をもって、偏見をもって対しているということはだいたい理解できましたね。

 なんでこんな話をしたかというと、私たちも同じことをしていないかと言いたいのです。私たちも、先輩宗教であるキリスト教に対して、ある固定観念をもって、それを投影して理解していて、本当のクリスチャンとは何なのかを実は知らないんじゃないかと。つまり、クリスチャンは『新約聖書』のイメージがあまりにも強すぎて本当のユダヤ人の姿が見えない。では私たちの場合にはどうなのかというと、『原理講論』に描かれているキリスト教のイメージというものが非常に強いものですから、実は『原理講論』というフィルターを通してしか、キリスト教というものを理解していないのではないか、ということになるわけです。

 ここで私の著書『神学論争と統一原理の世界』の23ページを読んでみましょう。
「ここまで書くと、皆さんの中には、統一教会もユダヤ人と同様にキリスト教会から誤解と偏見をもって見られ、悪いイメージが世界に宣伝されていると思った方もいるかもしれない。しかしここで私が言いたいのは、それとは全く逆のことだ。実は我々こそキリスト教を誤解してはいないか? と言いたいのだ。特に日本人の場合には、私を含めて統一教会に来る前にキリスト教というものをほとんど知らなかった人が多い。我々のキリスト教についての知識は、主として『原理講論』から得られたものだ。したがって、ちょうどクリスチャンのユダヤ教理解に新約聖書が決定的な役割を果たしたのと同じように、我々のキリスト教理解においては『原理講論』が決定的な役割を果たしているのである。そして問題は、それが正しい理解かどうかということだ。」

 実は私たちの多くは、実物のクリスチャンに会って、対話を通してキリスト教を知っているのではなく、『原理講論』という本を通してキリスト教について学んでいるわけです。さらに、キリスト教の信仰生活というものを内側から体験したことがない。そういうのを「内在的理解」というわけですが、クリスチャンとはどういうものなのかを私たちが実際に体験して知っているわけではないのです。

 ですから、キリスト教を見るときにはいきおい批判の対象とか、敵対勢力としてキリスト教を見てしまう。そうなると、かなり偏見に満ちた見方になってしまうわけです。あるいは自分たちはクリスチャンよりも上だというような、自己の優越意識の対象としてキリスト教を理解するようになる。これはちょっとキリスト教理解としては欠けている、誤っているのではないかということになるわけです。

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