米国におけるディプログラミングの始まりと終焉(4)


ダン・フェッファーマンによる2010年の論文

C.強制的ディプログラミングに対する刑事および民事訴訟(の続き)

ウィリアム・エイラーズ事件

 ビル、サンディー・エイラーズは「主イエス・キリストの弟子たち」の会員だったが、これはダーリーン・センスとナンシー・ロフグレンの事件と同じ団体である。1982年8月16日、当時24歳だったビル・エイラーズと妊娠中の妻サンディー(22)は、サンディーの胎児検診を終えてウィノナ診療所を立ち去ろうとしていたときに拉致された。ビルは背後から2人の警備員に捕えられ、待機していたバンに押し込まれた。サンディーは別のバンに入れられ、2人は少し離れた場所にある宗教的修養施設に車で連れて行かれた。ビルは力一杯抵抗したが、4人の男により寮形式の建物の最上階にある一室に運び込まれた。彼の部屋と廊下の窓はベニヤ板で覆われ、廊下の電話機は取り外されていた。ビルとサンディーは別々の宿舎に5日半拘束された。到着後間もなく、ビルは拘束者たちと激しくもみ合い、その後はベッドに手錠で繋がれた。監禁中の少なくとも2日間は彼はベッドに手錠で繋がれていた。最初の期間は、ビルはトイレを使用する時だけ部屋から出ることを許され、常に厳重に警備されていた。ある時、ビルがトイレを使用しなければならなかったとき、拉致者の1人がくず籠を彼の方に蹴ってよこし、彼は動物なのだからくず籠で用を足したらいいと告げた。監禁中、ビルは身体的虐待を受け、棍棒で脅され、ディプログラムされ切るまでは監禁し続けると言われた。その週の間、ビルにはそこを離れる自由は一度もなく、脱出の妥当な手段は全くなかった。

 1982年8月21日夜、ビル・エイラーズはディプログラミング継続のためアイオワ州アイオワシティーに移動するために一時的監禁場所を立ち去ることになったが、その時に彼は脱出の最初の機会を捉えて、乗っていた車から飛び降りた。拘束者の何人かが彼を追いかけた。他の拘束者は、地元の住民から通報を受けた警察から逃れるためか、その場を急いで車で立ち去った。しかしウィノナ警察局は、一台の車に乗ったディプログラマーたちを捕獲し、逮捕した。正式な刑事告訴が、警察に捕まった者の1人を除く全員に対して行われた。

 1982年10月7日、刑事訴訟における証拠を聴取するために選定された大陪審が不起訴の答申をし、事案のディプログラマーに対する全ての起訴事実を却下し、無罪とした。大陪審手続きは非公開で封印されているため、大陪審室で何が起こったのか知る術はない。しかし、ピーターソン裁判におけるミネソタ州最高裁の判決が大陪審の決定における重要な要因だった可能性が高い。また重要だったのは、検察官がディプログラマーの誰も証人として証言させるために召喚しなかったという事実である。

 ビル・エイラーズがディプログラマーに対して民事訴訟を起こした時、被告は憲法が保証する言論の自由の権利を行使しただけであると主張した。またディプログラマーはすぐに、ピーターソン事件における判決では親の代理人としてあらゆる法的責任から免除されるので、自分たちがやったことに対して法的責任はないと主張した。彼らにとって、ピーターソン判決は、ミネソタ州における彼らの不法活動に安全な隠れ家を提供するように見えたのだろう。

 エイラーズ裁判の終わりに、米国地方裁判所のハリー・マクローリン判事は、各被告に対して監禁罪の訴因について有罪の命令判決を下した。(注13)マクローリン判事は判決文(注14)で次のように述べた。

原告が実際に監禁されていたことにも疑問の余地はない。ピーターソン対ソーリエン判例、299 N.W. 2d 123, 129(ミネソタ州、1980年)におけるミネソタ州最高裁判決に基づいて、原告が被告の行為に同意したという証拠があるので実際には監禁はなかったと被告は主張している。それとは対照的に、原告は少なくとも監禁4日目には、脱出の機会を得るために同意したように見せかけていただけであると証言した。原告の表向きの同意は不法監禁の弁護にはならない。同じような状況下では、拘束者への恐れからにせよ脱出の手段のためにせよ、多くの人々が同意を装うだろう・・・

 エイラーズ判例におけるマクラーリン判事の意見は連邦レベルで出されたものであり、具体的にミネソタ州最高裁判決を論駁するものであるため、ピーターソン事件の「悪の選択」の弁護を無効化した。雇われディプログラマーはもはや、自分たちの行為に対する民事的、刑事的責任を免れるために司法制度と地域社会の偏見を利用できると信じて、自分たちのサービスを売り込むために自警団的方法を使うことはできなくなった。ビル・エイラーズは10000ドルの損害賠償金を受けるという判決を得たが、それに加えて家族や他の人々は50000ドルを支払うことで示談合意した。

トーマス・ワード事件

トーマス・ワード氏

 この事件(1981年に完結)は連邦高等裁判所レベルで、成人の子供がディプログラマーを告訴できる権利を明確に確立した。その根拠は、新宗教をその会員が公民権を欠く「カルト」であるとみなすことはできず、その権利が米国法によって保護されなければならないマイノリティーの一種であるというものであった。

 1975年11月24日、統一教会員トーマス・ワードは感謝祭の祝日を過ごすためバージニア州の実家を訪問した。ところが彼は空港で拉致され、自分の意志に反してある場所に連れてゆかれ、そこでディプログラマーのケン・コナーその他がワードを拘束し、暴行し、睡眠を剥奪した。ワードはバージニア州バージニアビーチからペンシルバニア州ピッツバーグに連れて行かれ、そこで絶えず身体的、精神的な虐待を受けた。

 第1審の米連邦地方裁判所は当初、ワードに不利な判決を下し、原告の両親は息子の福利を心配する心が動議になって行動したのだから、立証に必要な差別的偏向が欠如していると結論した。しかし第4巡回区の米連邦高等裁判所は、ワード対コナー、645 F. 2d 45(第4巡回区、1981年)で、次のように述べてこの判決を覆した:

我々は、このような親の心配を法廷が想定している点については異議を唱えないが、訴状は被告人が原告の宗教的信条を寛容に受け止めることができなかったからだけでなく、統一教会員に対する敵意のゆえに行動したことを十分に告発している。我々の意見では、これは法律の規定に従い主張を裏付けるに十分な差別的動機をはっきりと述べたものである。

 こうして、「ディプログラミング」を目的として成人の子供をその意志に反して拘束することは親の心配のゆえに正当化されうるという主張や、被害者が最終的に拘束者に協調するようになったことが被害者の損害賠償訴訟の権利を無効にするという主張を、両方とも拒絶するような確固たる法理学が形成されていった。

(注13)命令判決は、陪審裁判を司る判事からのどちらかの当事者が勝訴するという命令である。通常、正当な陪審であれば反対の決定は下さないだろうと判断した後に、判事が命令判決を下す。

(注14)エイラーズ対コイ判決、582 F.Supp.1093(ミネソタ地区、1987年)は次のような原則について引用された。原則が自分の意志に反して何日間も拉致監禁され、脱出する妥当な手段がなかったという証拠は、原告を合法的な当局に引き渡すのに必要な時間を超えて原告が監禁される場合や、民事上の拘禁のような合法的な代替手段が用いられない場合はとくに、ディプログラミングが試みられる状況下においては、不法監禁に対する法的責任を立証するに十分である。

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