実況:キリスト教講座10


キリスト教について学ぶ意義(10)

 それでは、キリスト教信仰の基本とは何か、クリスチャンとして最低何を信じているかという、一番のボトムラインになるものは何かというと、それはおそらく「使徒信条」ということになります。これはキリスト教の歴史において極めて初期の段階において、クリスチャンとは何を信じる者であるかということをまとめた文言でありまして、とても歴史のある、そしてほぼすべての正統的なキリスト教徒が受け入れているものであると言っても過言ではありません。

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 皆さんにクリスチャンの友人や伝道対象者がいたとすると、本当に熱心な方であれば、「統一教会って、本当にキリスト教なんですか?」と聞いてくるかもしれません。それに対して「キリスト教ですよ」と答えたら、「じゃあ、使徒信条を言えますか?」と言われる可能性があります。熱心なクリスチャンはこれを丸暗記しているわけですよ。ではその使徒信条を読んでみましょう。

 天地の創造主、全能の父である神を信じます。(①)
 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って全能の父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます。(②)
 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。(③)(2004年2月18日/日本カトリック司教協議会認可)

 「これを丸暗記できたら、真っ当なクリスチャン」という感じで、熱心な方はこれを覚えているわけです。この中で何が表現されているのかといいますと、キリスト教の信じる三つの重要な要素が入っています。まず父なる神を信じる、創造論を信じるということ。そして子なる神であるキリストを信じるということ。その中には、キリスト論、復活論、終末論の内容がすべて込められています。そして聖霊なる神を信じるということで、この中に教会論、救済論が含まれています。いわばキリスト教のエッセンスが全部詰まっていて、父と子と聖霊という、三位一体型の構造を持っているということが、この使徒信条の特徴です。

 なぜこういう使徒信条というものが生まれたかというと、キリスト教の初期にたくさんの異端が生まれたからです。つまり、これを信じるか信じないかによって、本当に正統なクリスチャンであるかどうかを判別するための基準として生まれたわけです。このうち一つでも否定したら、本当のクリスチャンとは言えない、異端であると判別するための基準として、使徒信条が生まれたと理解していただけたら良いと思います。

 その次に重要なキリスト教の神学論争としては、キリスト論と三位一体論というのがあります。このキリスト論と三位一体論というのは、神学校に行きますと相当詳しく勉強するんですが、はっきり言って、やればやるほど分からなくなる、というような分野でありまして、これに深入りすると皆さんの頭の中がこんがらかってきますので、さらっとだけやりたいと思います。

 このキリスト論と三位一体論は初期キリスト教の重要な神学論争で、結局、イエス・キリストとはいったい誰なのかという、私たちの信じるイエス・キリストとはいったいどんな方なのかという問いかけに対して、キリスト教会が一生懸命に表現しようとした努力の跡が、キリスト論と三位一体論の歴史であるということです。

 最も重要なポイントは、「キリストは神か人か?」という大論争です。これはニカイア公会議(325年)において話し合われた内容で、二つの議論があったわけです。アタナシウスという人がいて、彼は、父と子は「同一の本質」(ギリシャ語でHomousios)であると言いました。「同一の本質」ということは、要するに父も子も同じように神様なんだということです。それに対してアリウスという人は、そんなことはない、父と子は「類似した本質」(ギリシャ語でHomoiusios)と言いました。「i」という一文字が入るか入らないかだけの違いですが、要するに子(キリスト)被造物なので父と子は同等ではなく、完全に同一ではない、似ているだけだと主張したわけです。

 さて、このニカイア公会議で出した結論は、「子は被造物であり、父と子は同等でない」という教えは否定され、そういう考え方は異端であるとされたということです。ですから、このニカイア信条というのが正統的キリスト論の立場を確立したのであり、父が神であるのと同じくらい、イエス・キリストすなわち子も神であるということが決定されたわけです。統一原理はこれを真っ向から否定するわけでありますから、ニカイア信条からしても、どう考えても異端としか言いようがない、というのがキリスト教側の言い分であります。

 次に三位一体でありますが、ニカイア公会議において父と子は「同一の本質」(Homousios)であるということが決定され、続いてコンスタンティノープル公会議(381年)において、父と聖霊も「同一の本質」(Homousios)であると宣言されたので、結局、父も子も聖霊も全部神様なんだということになったわけです。これによって、父と子(キリスト)と聖霊に同一の神としての性質を認めるという立場が確立されたことになります。

 こうなると、キリスト教は一神教なのか、三神教なのか、という非常に微妙な問題になってくるわけです。父と子と聖霊という三つの神が存在するということなのか、それとも一つなのかという問題を解決するために、「三位一体論」という神学が作られました。おもにアウグスティヌス(354~430)などによって体系化されたわけですが、答えは「父と子と聖霊は、唯一の神の三つの異なる在り方であり、その本質において同一である」という言い方になりました。この異なる在り方のことを「位格」や「ペルソナ」と表現したわけですが、つまり、唯一なるお方が三つの現れ方をするんだということで、三つであると同時に一つであるという、とても不思議な結論になりました。これも「3イコール1」ということでありますから、合理的に考えるとわけが分からなくなってきます。

 その次に、キリストは神様なんだと言ったときに、「神様なのか、そうすると人じゃないのか」という問題が発生するわけです。そこで、キリストの「神性」と「人性」という問題、これがキリスト論の中心的なテーマになります。この「キリストは神にして人間」であるという矛盾をどのように解決するかということで、歴史的にはいろんな論争があって、5つのタイプのキリスト論が現れたと言われています。

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 第一に「神様じゃないんだ、人なんだ」ということで、結局「人性」しか認めない立場を「エビオン主義」と言います。第二に、「神様なんだから、人じゃないんだ」ということで、結局「神性」しか認めない立場は、仮現論や、アフリカのコプト教会の信仰に見られます。第三に、神であって人であるということは「半神半人」なんだという立場があり、たとえばアポリナリウスという人は、「イエスは人間の肉体を持つが、霊魂が神のロゴスと入れ替わっている」と主張しました。第四に、「神性」と「人性」がもともとあって、それらが混合して、神でも人間でもない第三の存在になったんだという、エウティケスの主張などがあります。

 この1から4までは、全部異端になりました。そして5番目が結論になります。「全き神であると同時に全き人」であるというのが、正統信仰の立場として、カルケドン信条(451年)で決定されました。その表現がどのようになっているかというと、キリストの神性と人性は、「二つの本性において、混合されず、変化せず、分割されず、分離されない」となっています。すなわち、混ざってもいなければ、分かれてもいないということです。わけ分かんないですね。(笑)

 皆さん、ある果物がありました。これはミカンであると同時にリンゴなんです。それで半分ミカンで半分リンゴなのかというとそうでもない。完全なリンゴであると同時に完全なミカンなんだ。しかもミカンとリンゴを掛け合わせて新種の果物になったということでもない。そういう果物を理解できますか? 分かんないですよね。合理的に理解できないじゃないですか。でも、キリスト論ではそれが結論になったということです。

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