書評:大学のカルト対策(4)<1.なぜカルトは問題なのか③>


櫻井義秀氏による第一部の最初の記事「1.なぜカルトは問題なのか」の三回目です。

前回は、カルトと宗教の違いは、「宗教的問いに向き合う姿勢」にあると櫻井氏が主張していることを紹介しました。彼は、「カルトは一つしか答えがないことをもって真理とし、この真理を受け入れるか否かが信仰の基準なのだと迫るのですが、それはおよそ宗教的問いの歴史を無視したやり方なのです」(p.28)と言います。要するに、カルトは宗教的な問いに対して答えを即座に出したり、一つに絞ったりするのに対して、普通の宗教や伝統的な宗教は求道者に寄り添うだけで答えを出す側に回ったりはしない、そうした独占排他性がカルトの特徴だと言いたいようです。はたして本当にそうでしょうか?

櫻井氏の説くこのような「宗教とカルトの違い」は、櫻井氏の思い描く「宗教の理想型」を表明しているに過ぎず、宗教の現実からかけ離れています。なぜなら、伝統的な宗教の中に、「カルトの性質」である独占排他性を、私たちは嫌というほど発見することができるからです。彼こそ、宗教の歴史を無視しているのではないでしょうか?

新約聖書には、教祖であるイエスが、「真理を会得した、神から直接聞いた、私自身が神である等」(櫻井氏によるカルトの特徴、p.26)に該当する発言をしている例が多く存在します。以下にほんの数例を挙げます。

・イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 」(ヨハネによる福音書14:6)

・「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書10:30)

・イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。(ヨハネによる福音書14:9‐10)

キリスト教の独占排他性を最もよく表現している聖句としては、「この人(イエス)による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)がよく紹介されます。

キリスト教は、歴史的に極めて独占排他的な宗教でした。それはカトリックの『教会の外に救いなし』(キプリアヌス)、プロテスタントの『キリスト教の外に救いなし』という言葉に集約されており、それを最も端的に表現した文書の一つに、福音派のローザンヌ誓約(1974年:ローザンヌ世界伝道会議)の第三項「キリストの独自性と世界性」があります。以下に代表的な部分を引用してみましょう。

「われわれはまた、あらゆる類の混合主義や、キリストはすべての宗教やイデオロギーをとおして差別なく平等に語っているというようなことを暗示するような対話を、キリストと福音とに対する冒涜とみなして拒否する。 イエス・キリストは、唯一の神人であられ、罪人のための唯一の贖いの代償としてご自身を与えられた方として、神と人との間の唯一の仲保者である。」

そもそも、聖書の神は独占排他的だったのです。その根本が旧約聖書の出エジプト記第20章1-6節に出てくる、十戒の第一戒であり、これがユダヤ・キリスト教の基本をなしています。いかにその部分を引用します。

・神はこのすべての言葉を語って言われた。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。・・・それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」

こうした伝統に基づく旧約聖書と新約聖書には、独占排他的な唯一神の主張が多く出てきます。代表的なものだけを挙げても、以下のようなものがあります。

・わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。(申命記32:39)

・わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。(イザヤ書45:5)

・多くの神、多くの主があるようではあるが、わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。(コリント人への第一の手紙8:5-6)

同じく一神教であるイスラム教も独占排他的です。コーランにおける根拠には以下のようなものを挙げることができます。

・言え、かれは神、唯一者であられる。神は、自存者であられ、彼は産みたまわず、また生まれたまわぬ、かれに比べ得る、何ものもない。(コーラン112:1-4)

・天と地と、その間の一切の事物は、神の大権に属する。かれは、よろずのことに全能であられる。(コーラン5:120)

「イスラム原理主義」とか「イスラム根本主義」とか呼ばれるものは、コーランの無謬を信じて厳密に字義どおり解釈し、ムハンマドの時代のイスラム共同体を復興させようとする運動のことですが、その中には「イスラム以外の宗教や無神論、無宗教は皆間違いであり、地獄に落ちる」などという主張を行う者もいます。

排他的仏教の例としては、日蓮正宗や創価学会による「折伏」を挙げることができます。「折伏」は日蓮系で概ね富士門流系の宗派における布教姿勢の一つで、相手の間違った思想に迎合することなく、正しいものは正しいと言い切り、相手と対話を通じて日蓮の仏法を伝えることを言います。この「折伏」という言葉を有名にしたのが、創価学会が1951年以降に始めた「折伏大行進」キャンペーンです。当時の信者は「折伏教典」を片手に片っ端から折伏したと言われており、それは割合世俗派の日蓮宗各派、天台宗、真言宗、禅宗、念仏宗、キリスト教などありとあらゆる宗教哲学に対して徹底的に批判・断罪した内容であったと言われています。

櫻井氏は、「一つしか答えがなく、それ以外はすべて間違いとしてしまうと深刻な宗教間対立、宗教的原理主義を生み出すことになります。中世の異端審問や異教徒の迫害、近現代の宗教・民族的対立が深刻化した地域紛争や戦争、宗教的過激主義による無差別テロなど、宗教的非寛容の行き着く事例はいくつでも上げることができます」(p.28)などともっともらしいことを言っています。しかし、この記述は結果的に、イスラム原理主義も、中世のカトリックも、紛争を起こしている近現代の宗教も、櫻井氏の判断基準によればすべては「カルト」であり、宗教ではないという結論を導き出してしまうのです。これでは歴史的な宗教と現代宗教の多くが「カルト」に分類される結果になってしまいます。

 

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