書評:大学のカルト対策(5)<1.なぜカルトは問題なのか④>


櫻井義秀氏による第一部の最初の記事「1.なぜカルトは問題なのか」の四回目です。

前回は、カルトは宗教的な問いに対して答えを即座に出したり、一つに絞ったりするのに対して、普通の宗教や伝統的な宗教は求道者に寄り添うだけで答えを出す側に回ったりはしない、そうした独占排他性がカルトの特徴だ、という櫻井氏の主張に対して具体的な宗教の事例を示して反論しました。

実際には、唯一絶対の究極的真理を主張するというのは、宗教が普遍的に有している性質の一つであり、カルトと宗教の区別にはなりません。こうした主張をしない宗教もたしかに存在するでしょうが、それがカルト以外の宗教の一般的な特徴だと言えるほど、広く共有されているとはとても言えません。特に、カリスマ的指導者に率いられた新宗教が、自分たちは唯一絶対の究極的真理を説いていると主張するのは歴史的な事例に満ちており、こうした独占排他的な主張をする宗教にも、信教の自由が保障されているのです。

すなわち、その独占排他性が教義や思想に留まり、暴力や違法行為を行わない限りは、どのような教えの宗教も国家は取り締まることはできません。新しい宗教は革命的な教えであることも多々あるわけですから、思想信条の自由を認めなければ、そもそも新しい宗教が出現することはできません。これは、信教の自由の中でも、「内面の自由」が絶対的なものであることを根拠としています。

櫻井氏の理想とする「問い続ける宗教」や「答えを一つに限らない宗教」は、宗教的多元主義の立場に立っており、宗教社会学的に言えば、「チャーチ」「セクト」「デノミネーション」という教団の類型の中で、「デノミネーション型」の教団が有している特徴です。これはH.R.ニーバーという宗教社会学者が言った、「アメリカ型キリスト教」の特徴でもあります。

アメリカでは、ヨーロッパから非国教的セクトの信者たちが信仰の自由を求めて移住することによって、自発性の高い各教派が、国王も国教もない新天地で平等に競合しつつ伝道する状況が生じました。彼らはヨーロッパの独占排他的なキリスト教から迫害されてきた経験があるし、移住地には独占排他的な一つの教団による支配がなかったので、自分達の教派が唯一の真理を独占していると主張しないことによって、各教派の平和的共存が可能な状況を作り出したのです。

宗教的多元主義は、キリスト教の教派で言えば「リベラル」な教派に属する考え方であると分析することができます。現代のプロテスタントの諸教派を大きく二つのグループに分類すると、福音主義と自由主義に分けることができ、それぞれ以下のような対立的な特徴を持っています。

 

福音派(Evangelical) 自由主義(Liberal)
聖書は神から与えられた完全な啓示であり、すべて字義通りの真理である。 聖書は真理の源泉だが無謬の書ではなく、時代的・文化的制約を受けている。
キリストの神性を強調 キリストの人性を強調
人間の罪深さを強調 人間の本来的善性を強調
神の啓示は聖書にのみ記されていると信じるので、他宗教の価値は認めない。 神の啓示は聖書に限定されないので、他宗教の価値を認め、対話しようとする。
現代科学の成果に対して懐疑的 現代科学の成果を積極的に評価する。
世俗社会に対抗的 世俗社会に同調的

 

福音派の主張をもっと極端にしたものが「根本主義」になりますが、それは櫻井氏の批判する「原理主義」と同じ意味で、英語では「ファンダメンタリズム」と言います。どうも櫻井氏は「ファンダメンタリズム」がお嫌いで、こうした性質をもつ教団を「カルト」と呼びたがっているように見えます。

しかし、今日の世界を見れば、櫻井氏の理想とするリベラルな教団は一様に停滞しており、教勢は伸びていません。一方で、イスラム原理主義が台頭し、アメリカでは福音派のキリスト教が教勢を伸ばしています。現状を見る限り、世俗化されたヨーロッパと日本を除けば、「世界のカルト化」(櫻井氏の判断基準によれば)が起こっていることになります。これではますます「宗教とカルトの区別」は不可能になり、「答えを一つに絞る独占排他性がカルトと宗教の区別だ」などと言っても、それは日本固有の区別もしくは櫻井氏の独断による区別としか言えない代物になってしまうでしょう。ちなみに、日本でもリベラルな日本基督教団は信者数が減っており、熱心に伝道する福音派の方が数は増えています。

一方、統一教会の立場は原理主義とは異なり、他宗教の価値を認め、対話しようとするので「カルト」の性質に当てはまらないことになります。このことは、文鮮明師が宗教間の和解の為の活動を展開し、「世界経典」の編纂を指揮したことなどからも明らかです。

また、櫻井氏の「既成宗教は問い続け、答えを即座に出したり一つに限定しないのに対して、カルトはマニュアル化された答えを即座に出すことによって求道を停止させる」という主張は、自身が持つ「カルト」に対するステレオタイプ化されたイメージを表出しているに過ぎず、事実の検証に基づいていません。彼の統一教会に対する批判も、現役信者に対する客観的で公正な取材に基づいたものではないのです。彼は、脱会者の証言や、反対弁護士の提供する資料を通して、統一教会員に対するイメージを形成しているのであり、「生身の統一教会員」の姿をきちんと観察したことがないのです。

実際には、カルト視されている宗教の信者も、さまざまな問いを発しながら、ライフワークとして信仰の道を歩んでいるのであり、与えられた答に満足して思考停止しているわけではありません。宗教的な問いを発する姿勢は、カルト視されている宗教の信者も、伝統宗教の信者も基本的には同じであり、カルトの信者は思考を停止しているので求道の必要がないなどということはないのです。

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