書評:大学のカルト対策(3)<1.なぜカルトは問題なのか②>


櫻井義秀氏による第一部の最初の記事「1.なぜカルトは問題なのか」の二回目です。

彼は、「カルト視された教団」として、オウム真理教(=アレフ・ひかりの輪)と統一教会を紹介していますが、ここでは教団の概要紹介は省き、彼が「カルトの問題性」と題して表現しようとしている内容に注目してみたいと思います。櫻井氏は、17ページに以下のような興味深い表を掲載しています。

 

布教・教化

社会的活動

教説・信仰

法律的次元

信教の自由(宗教選択の自由)の侵害

違法行為(殺人・詐欺等)

法的介入の対象とならない

社会的次元

自律的思考(精神的自由)の侵害

公序良俗に反する(性・結婚の統制等)

権威主義的・自発的従属

宗教的次元

スピリチュアリティの侵害

宗教の信用失墜

歪曲された教説

 

この表の意図するところはなんでしょうか? これは櫻井氏がカルトに対する批判を、単に法律的な次元にとどまらず、社会的次元や宗教的次元でも行わなければならず、自分がその中心的な役割を果たそうとしていることを示しています。もとより法律問題は弁護士など司法の専門家が扱う部分であり、宗教学者としては門外漢の部分であるわけですから、そこで自分が主導権を握ることはできません。さらに、信仰の内容や教説そのものは「信教の自由」によって守られており、国家は干渉できないため、裁判ではそこまで踏み込んで議論することはできません(統一教会関係の裁判では、実際には踏み込んでしまっているケースがあるのですが・・・)。

そこで宗教学者である櫻井氏は、そうした法律によっては裁けない領域でカルト批判を展開できないだろうか、いややるべきだ、と考えたのでしょう。そのためには、法律では違法と断定できなくても、社会的に見て「良い宗教」と「悪い宗教」、あるいは「良い教義」と「悪い教義」を判断できないか、また宗教とは何かという本質に帰って、「良い宗教」と「悪い宗教」、あるいは「良い教義」と「悪い教義」を判断できないか、という問いを発し、それに対して答えを提示するということに挑戦しなければなりません。こうしたことを通して、「本物の宗教」と「カルト」を区別できないか、ということを櫻井氏はそれをやろうとしているようです。はたしてそれに彼が成功しているかどうかを、これから見ていくことにします。

櫻井氏は、「宗教的問いとカルト的解答」という部分で、この試みに挑戦しています。彼の言わんとするところをサマライズすると、以下のようになります。

カルトに悪い人はいない。カルト信者のパーソナリティを動機においてみるなら、むしろ善人に近い。

そうした人たちがなぜ悪事を犯すに至るのかというパラドックスを解く鍵の一つは、自律的思考の喪失と権威主義的組織構造にある。しかし、これは繰り返し言われてきたことである。

もう一つの鍵は、宗教的問いに向き合う姿勢があったのではないか? 宗教もカルトも、人生の根本問題に対する問いかけに向き合っているが、カルト視される教団の大半は、教祖がこの種の問いに最終的な結論を出したと主張する。(Ex.真理を会得した、神から直接聞いた、私自身が神である等)。

カルトにおいては、信者になることは、教祖による真理を部分的にでも理解し、その実践者になることである。

カルトに入信することで求道する必要はなくなり(求道の葛藤から解放され)、与えられた「答え」の実践をするだけで良い(安寧を得た気がする)ということになる。

一方、既成宗教においては、一通りの答えは示されているが、求道はライフワークであることが暗に示唆され、これがあなたへの答えだと示されることはない。問いを続けることの意義と問い方の工夫についてアドバイスを受けることがせいぜいである。

布教で出会った人に即座に答えはコレだなどということは、マニュアルに頼らなければありえない。

櫻井氏は、「一つに、まともに宗教を学び、実践をし、人にも説くような立場にある人は、自身が学ぶこと、指導することの両面において求道の難しさを知っているので、問い続ける者の同伴者になることはあっても、答えを出す側に回ることはないのです。」「カルトは一つしか答えがないことをもって真理とし、この真理を受け入れるか否かが信仰の基準なのだと迫るのですが、それはおよそ宗教的問いの歴史を無視したやり方なのです。」(p.26-28)と言ってオウム真理教と統一教会を批判し、「宗教において重要なことは問いを立てるということ、問い続けることであって、答えを即座に出すことや答えを一つに限ることではない」(p.28)と結論します。

およそこのあたりに、櫻井氏の理想とする宗教の姿と、「宗教とカルトの違い」が表現されていると言って良いでしょう。それでは、この「宗教とカルトの違い」が果たして成り立つのかどうかを、次回は論じてみたいと思います。

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