書評:大学のカルト対策(2)<1.なぜカルトは問題なのか①>


櫻井義秀、大畑昇編著の「大学のカルト対策」の書評の2回目です。

この本の第一部の最初の記事は、「1.なぜカルトは問題なのか」というタイトルで、櫻井義秀氏が担当しています。彼はまず、「カルトとは何か」という問いかけに答えるところから論を起こしています。

櫻井氏は、「学術的な用語としては、カリスマ的宗教指導者に率いられた原初的な教団として用います」(p.5)と断った上で、アメリカにおける三つのカルトの用例を以下のように説明しています。

①1920年代~:社会科学者の用法:主要な宗教伝統に属さないアメリカ発生の新宗教 ②1930年代~:福音派牧師の用法:異端的キリスト教(モルモン教、エホバの証人など)
③1978年(人民寺院事件)以降:マスメディアの用法:社会問題化する新宗教

その上で、日本では、①が宗教学・宗教社会学といった学問に、②がキリスト教会に、③がオウム事件以降マスメディアに導入されるようになったと説明しています。

このような用法の分類は、正しいと言っていいでしょう。宗教社会学を専門とするだけあって、基本はきちんと押さえているという感じがします。この内容は、私がこのブログで2012年6月20日に投稿した内容とほぼ一致していますので、関心のある方は以下の過去ログをご覧になってください。 http://suotani.com/archives/187

このようにカルトに多くの用例があるということは、「カルト」という言葉が多義的であり、確立した定義が存在しないことを櫻井氏自身が認めていることを意味しています。多義的というのは、使う人によって違った意味が付与されるということです。さらに、カルトやセクトといった言葉に「揶揄的な含意」(p.4)があることも認めておりますので、この言葉が恣意的なレッテルとして使われることもあることを、彼は承知していることになります。

こうした議論を終えたあとで、彼は「カルトと宗教は違うのですか」という問いに対して、「カルトは宗教ですが、一般に宗教とみなされている団体とは区別される特徴があると考えられています」という簡単な回答を示しています。そして、この区別の本質に関する論争があることを認めています。それは基本的に以下のどちらの立場をとるかということです:

a.区別は社会体制から見ての「偏見」である。カルトは問題ではない。
b.カルトには人権尊重の観点から見て明らかに是正を促すべき逸脱がある。カルトは問題である。

ここではっきりと私の立場と櫻井氏の立場が別れます。すなわち、「a」が私の立場であり、「b」が櫻井氏の立場であるということです。しかしながら、後に説明しますが、櫻井氏は大学で「カルト」という言葉を使う際には、こうした学問的な用法はさておいて、もっと「実用的な」用法でいいのではないかと言っています(p.150)。自らの専門分野である宗教社会学における「カルト」の用法は一応紹介はしますが、「カルト」を取り締まるのに役に立たないとなると、あっさりと捨て去ってしまうわけです。

続いて櫻井氏は、アメリカにおけるカルト論争を紹介します。カルト批判側が、「マインド・コントロール」を主張しながら、脱洗脳(deprogramming)や脱会カウンセリング(exit-counseling)による介入を行ったのに対して、カルト視された団体と、少数派の宗教への寛容と対等な扱いを主張する宗教学・宗教社会学者が「これらの宗教でも入信と活動は自発的な意思によるもの。マインド・コントロールはない。介入的な方法による脱会は、信教の自由の侵害である」と反論したことを紹介した上で、彼は現状について、「カルト批判とカルト擁護論が当事者・専門家を巻き込んで展開されましたが、未だに決着がついていません」(p.6)と総括しています。

これは、いささかカルト批判側に好意的な肩入れをした現状評価と言わざるを得ないでしょう。なぜなら、現在欧米でdeprogrammingを支持する人はいないからです。私は反カルト側の学会であるICSAの国際会議にこれまで3回参加しましたが、強制的な手法を用いるdeprogrammingに対しては、ICSAは反対の立場を公式に表明しています。スティーブン・ハッサンでさえ、deprogrammingには反対なのです。これはテッド・パトリックを始め、deprogrammingを行った人々が逮捕され、裁判で実刑判決を受けたことと、多くの民事訴訟でも敗訴したことが原因であり、西洋ではとっくに決着のついている問題なのです。

次に、マインド・コントロール論争に関しても、1990年の「米国対フィッシュマン」判決が、新宗教による「洗脳」や「マインド・コントロール」問題を詳細に考察し、「洗脳、マインド・コントロール理論は心理学や社会学の学問的分野で十分に受け入れられていないので、連邦裁判所の法廷で専門家証言として認めることはできない」という結論を下したことによって、ほぼ決着がついているからです。

それでも櫻井氏は負けを認めたくないらしく、「現実にはいかなるカルトの信者であろうと、100%マインド・コントロールされているとも、100%自由意志で行為しているとも言えないものです」(p.7)と言って、引き分けに持ち込もうとします。そして、「同じ教団であっても、単純に騙された、あるいは自分の判断だけで選んだという回答はありません。個人ごとに固有の選択がなされた状況・文脈があります。そこをしっかり見て判断することが必要です」(p.8)と言って、抽象的な議論ではなく個別のケースで判断しましょうよ、と議論をシフトしていきます。

そして結論としては、「仮に、カルトのメンバーが違法性の高い勧誘方法によって入会させられ、犯罪に加担して身を滅ぼすような危険があるならば、家族や学校は介入をためらうべきではありません。原則的な信教の自由だけを論じても人を救うことにはならない」(p.8)と言って、「介入肯定論」へと強引に引っ張っていくのです。

彼は、「問題となるのは正体隠しの勧誘、不安を煽る教え込み、法外な献金や要求、虐待などであるから、カルト論争という抽象的な議論では決着がつかないことでも、具体的な問題状況ではおのずから当否が明らかになる。事例に学ぶことが重要」(p.8の要旨)と言うのですが、ここに重大な論理のすり替えがあります。

なぜなら、「個人ごとに固有の選択がなされた状況・文脈がある」と言いながらも、実際には個人の状況が厳密かつ客観的に吟味されることはなく、一度カルト視された団体は過去の事例や判決を根拠に、違法性や危険性が自動的に認定され、入信は人権侵害の結果であり、学校や家族の介入が必要であるという結論になってしまうからです。

大学側には、個人ごと、個別のケースごとに状況をしっかりと精査して判断しようなどという姿勢は全くありません。自らが一度「カルト」をレッテル張りをした団体は、きちんと調べなくても自動的に「違法」「危険」「人権侵害」という判断がくだされるのです。ここに、重大なダブルスタンダードがあると言わざるを得ないでしょう。

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