循環論法に陥る「カルト」と「マインド・コントロール」


ここで、「カルト」と「マインド・コントロール」という言葉は循環論法的に繋がっている概念であることをご説明します。最初に、ハッサンは「『カルト』は悪であるが、それは『カルト』の信じる内容が問題なのではない。信じる内容は信教の自由で保障されているので、たとえどのようなおかしな教えであったとしても信じる権利はある」と、信教の自由を尊重するような言葉を語っています。しかし、「『カルト』は『マインド・コントロール』を使い、個人の自由意志を奪って伝道するという人権侵害を行なっているから悪である」と主張しているのです。これが彼らの「マインド・コントロール」を非難する主な理由になります。
ところが、本を読み進めていくと、途中で「実は、『マインド・コントロール』自体は善でも悪でもない。なぜなら、私も『破壊的カルト』に入会している信徒を脱会させるカウンセリングの時に、『マインド・コントロール』と同じ手法を使っているからである」と言い出します。

さらに、「目的が善なら『善なるマインド・コントロール』で、目的が悪なら『悪なるマインド・コントロール』である。私は善なる目的でやっているから良い」と主張しているのです。そして、最終的には「なぜ『マインド・コントロール』が非難されるかというと、この『マインド・コントロール』が悪となるのは、それを行なう『カルト』が悪であるため、『マインド・コントロール』も悪になるのだ」としています。つまり、「『マインド・コントロール』によって『カルト』が悪になる。しかし、『カルト』が悪であるのは『マインド・コントロール』を使用しているからである」というように、循環論法に陥っているのです。

『カルト』と『マインド・コントロール』は、どちらも曖昧な概念なので、互いに互いを定義し合うような循環論法によってしか結びつかないようになってしまうのです。

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