『生書』を読む39


第九章 第一回御出京の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第39回目である。第37回から「第九章 第一回御出京」の内容に入った。第九章では、大神様がいよいよ東京に出て行って教えを宣べ伝える様子が描かれている。

 大神様は1946年(昭和21年)3月9日から4月2日まで25日間、東京都杉並区にある慈雲堂病院に滞在され、ほぼ毎日御説法をされた。最初のうちは70~80名くらいの聴衆だったが、だんだんとその数を増していき、毎日のように聞きに来る者たちも増えていった。このころの大神様の説法の中で印象的な内容を少し紹介してみたい。
「己の良心を、赤土で包み、コールタールを塗って、その上を鉛で覆っているのがいまの蛆虫じゃ。それを取っちゃあ投げ、取っちゃあ投げする。投げられて地上にぶつかって割れ目ができたら、その割れ目から磨いてゆけ。やがては、真珠のように美しい良心の持ち主になれるのじゃ――。」(p.262)

 ここで良心を覆っている赤土やコールタールや鉛などは、良心が機能しないように麻痺させている俗世間の欲望や利害や習慣性などを指すのであろう。これは統一原理でいうところの「堕落性本性」に似ている。こうした堕落性を取り除いて良心が機能するようにするためには、既成の概念を破壊しなければならず、ショック療法が必要である。それを大神様は「取っちゃあ投げ、取っちゃあ投げ」と表現しているわけだが、大神様から悪口を言われたり、叱り飛ばされたりする経験は、堕落性を脱ぐためのショック療法としての意味があるのであろう。

 この記述から、天照皇大神宮教の人間観は基本的に「性善説」であり、自力によって自己の魂を磨くことができると考えていることが分かる。堕落した「蛆虫」といえども心の奥底には良心があり、それを覆っている俗世の習慣性を打ち破れば、良心が現れてくる。自らの良心の声に気付いてそれを磨いてゆけば、真珠のような美しい心を持った真人間になることができると教えているのである、こうした教えは統一原理でいえば、堕落人間が良心の声に従い、堕落性を脱ぐことによって創造本性を復帰することができると教えているのとよく似ている。

 大神様は「蛆虫」の状況について以下のように説いておられる。
「床下二十軒掘ってみい。真っ暗がりの暗闇じゃ。その暗がりの中で朝から晩まで、喧嘩したり、悩んだり、悔やんだり、餓鬼焦りに焦ったり、病気したり、一生涯でも苦しんでいるばかがおる。いくら太陽が平等に照るというても、床下二十軒底までは照っておらん。暗がりの世界に愛想が尽いたら、明るい世界まで上がって来りゃあよい。」(p.263)

 この言葉は、イエス・キリストが言った「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マタイ5:45)という言葉と、一見似ているようで異なっている。イエスの教えのポイントは、因果応報の思想に基づいていた当時のユダヤ教の教えからすれば正しくない者、すなわち律法を守ることができず、正しく生きることができずに苦しんでいる人々に対しても、神は平等に愛を降り注いでいるのだということであり、こうした教えが当時の貧しい人々や、社会の底辺にいる人々の支持を得たのである。これはイエスが当時のユダヤ教の基準からすれば罪人として断罪され、救の道が閉ざされていると思われていた人々のところまで降りていき、彼らに寄り添う姿勢を示したということである。

 ところが大神様の教えは、確かに太陽は平等に照っているのだが、人間が床下二十軒に潜っているのでその光を受けられないのは本人の責任であり、自力で明るい世界まで上がって来いと言っているのである。「そっちへ行けば生き地獄、こちらへ来れば天国と、わしはただその道教えをしているだけじゃ。」「じゃから自分の肚で心の掃除をして神へ行く道を上がって行くよりほかに道はない。」(p.263)と、あくまで自力によって上にあがってくることを求めている。

 新約聖書のイエスの教えと大神様の教えを比較してみると、統一原理の立場はキリスト教的な伝統の上に立ちながらも、大神様の教えにやや近いと分析することができるであろう。大神様の言うところの魂の成長は、統一原理では「霊人体の成長」と解釈することが可能であり、そこにおいて人間の努力や責任分担が強調されているという点では、自力の傾向が強いと言えるからである。

 統一原理においては、創造原理の第6章で霊界や人間の霊的成長に関することを扱っている。それによれば、人間が霊的に成長するためには、神から来る真理を悟り、それを実践することによって人間の責任分担を完遂しなければならない。霊人体は肉身を土台にしてのみ成長できる。肉身が地上において善なる行いをすることによってのみ、良い生力要素を霊人体に与えることができ、霊人体が正常な成長をするようになっているからである。したがって、人間が真理に従って善なる生活をしない限り、霊的な成長をすることはできないと統一原理は説くのである。

 堕落した人間が、神の愛の懐を離れた「死」の状態から、神の愛の圏内にある「生」の状態に戻っていくことを統一原理では「復活」と定義しているが、この復活に当たっても、人間の責任分担の重要性が説かれている。すなわち、復活摂理がなされるためには、堕落人間が自身の責任分担として、み言を信じ、実践しなければらならないとされているのである。

 貧しい人々や、社会の底辺にいる人々に寄り添ったイエスの教えの価値を否定するわけではないが、統一原理はキリスト教と比較すれば神の無条件の愛や一方的な恩寵などの他力的な要素よりは、人間の努力や責任分担などの自力的な要素の重要性をより強調した神学であると言ってよいであろう。

 大神様は東京での説教の中で、人間の欲深さを厳しく断罪している。「金をもうけさせてくれ」と祈る者はいるが、いくら儲けてもきりがなく、その次は地位や名誉や妾や贅沢三昧を求めるようになるというのである。そして国や神仏を忘れて利己に走れば、そうして得たものは必ず利子をつけて取り上げられるようになるだろうと警告している。そのような空虚な財産を地上に蓄えるよりも重要なことがあると大神様は教えている。
「封鎖もなけりゃあ、取りつけもない、焼けもせん銀行を一つ教えちゃろうか。そりゃあ天の郵便局じゃ。天の神が取るのは人間の真心だけ。真心を天の郵便局に貯金して心の通い帳を子孫に渡せ、それが無限の富。親の代にいらなきゃ子の代に出る、子の代にいらなきゃ孫の代に出る。」(p.264-5)

 この教えは、イエス・キリストがマタイ伝で説いている、「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6:19-21)という教えと酷似している。真の宝は物質的なものではなく、精神的なものであり、それは天に蓄えられるという思想である。

 大神様が金銭的な執着を戒められたのと同様に、イエス・キリストも富や物質主義は避けるべき悪であり、経済的な豊かさの追求は罪過や信仰の妨げであると解釈できる言葉を語っている。そのうちの二つを以下に紹介する。
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)
「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」(マタイ19:23-24)

 このためキリスト教の伝統には、可能な限り富を回避し、清貧を保とうとする思想が受け継がれることとなった。多くの信徒たちが、信仰の足かせとなる富への欲求や、所有欲といったものを捨て去るため、清貧の誓いを立てた。キリスト教には禁欲、博愛、喜捨といった自発的な貧困の伝統が長きに渡って存在する。ローマ・カトリックにおいては富の放棄は「清貧、貞節、従順の誓い」のうちの一つある。一部の特定の教派では極端な清貧の誓いを立てる。例えば、フランシスコ会では前もって全ての個人的な財産を捨て去り、その後も共同体で財産の所有を行う。マルティン・ルターは、マンモン(または富への欲望)を「地上で最も見かける偶像」とみなした。この点に関しては、天照皇大神宮教と伝統的なキリスト教はよく似ていると言ってよいだろう。

カテゴリー: 生書 パーマリンク