書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』185


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第185回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。今回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入る。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 この説の冒頭に中西氏は「1 理想と現実」という項目を設けて、統一教会の教説における祝福の理想と、韓日祝福の実態にはギャップが存在することを強調している。すなわち、「在韓の日本人女性信者達は教説的に見ると再臨のメシヤの国で、あこがれの韓国人男性と最も理想的な韓日祝福でもって怨讐を超えた家庭を築いたことなる」(p.490)という理想がある一方で、「夫は結婚目的で信者になっただけであり、夫婦で信仰を共有しているわけでもない」うえに、「愛も経済力もない相手との結婚」(p.491)であるという現実があるというのである。

 中西氏が調査したA郡に嫁いだ日本人女性の学歴は高校卒、専門学校卒、短大卒、大卒が含まれており、これは同年代の日本人女性の学歴と比較すれば平均よりもやや高い傾向にあることはすでに紹介した。それに比べると「韓国人の夫は聞き取りした範囲でいえば高校卒と同数程度に中学校か小学校卒がおり、大学卒は通信制大学が一名いるだけ」(p.491)であるという。すなわち、韓日祝福は日本人女性の高学歴に対して韓国人男性の低学歴という、格差婚になっているというのである。韓国は日本以上に学歴社会であることから、夫たちの仕事はおのずと制限されるため、比較的安定した職業に就いている夫がいる一方で、就労が不安定な夫もいるという。このことは韓国の祝福家庭の経済状況に直結しているようで、中西氏は経済的に苦労しているという女性信者の語りを引用している。同時に中西氏は、こうした記述が自身の差別や偏見に基づくものでないことを説明することも忘れていない。その原因は夫となった韓国人にあるのではなく、むしろ韓国の社会構造に由来するものであるということだ。「ただこれは彼女達の夫が不真面目で労働意欲がないのではなく、韓国の社会構造的な要因が絡む。」「A郡は特に経済発展から取り残された地域にある」(p.492)という中西氏の指摘は的を得たものであろう。

 中西氏によれば、これは単なる客観的な事実の指摘ではなく、日本人女性たち自身も自分たちの生活が経済的に楽でないことは自覚しており、信仰ゆえにそれを続けていられるのだと自負しているという。だからこそ、その信仰とはいったいどのような信仰なのかという「問い」が生まれ、それに基づく彼女の分析が展開されるのである。彼女の結論は、統一教会の「特異な信仰」ゆえにこうした結婚生活を維持できるのだというものだ。しかしながら、信仰ゆえに「あえて低いところを訪ねていく」という現象は、統一教会に限らず宗教の世界には普遍的にあるのだということを今回は主張してみたい。

 中西氏は「一般に女性は結婚に際して上昇婚を望む。自分や自分の父親よりも学歴や職業的威信の高い相手と結婚することで社会的な階層上昇を図るというものである。韓日祝福で農村の男性と結婚するとなると上昇婚は望めず、下降婚になる。」(p.492)と述べている。ところが、宗教は伝統的に富や社会的地位を否定し、清貧に積極的価値を見出してきたのである。女性が結婚して上昇婚を望むというのは、世俗的な一般論であって、宗教的な動機で結婚する祝福家庭婦人の第一次的な関心事ではない。むしろ彼女たちは「下降婚」に宗教的な意義を見出しているのである。

 古来より宗教は、富と所有物に対する執着は霊的成長を阻む足枷であるとみなし、救済を得るためには富と所有物を放棄することが必要であると教えてきた。「仏教の十戒」には「不蓄金銀宝」があり、金や金銀・宝石類を含めて、個人の資産となる物を所有することを禁じている。キリスト教の新約聖書も、以下のように金銭に対する執着を戒めている。
「金銭を愛することは、すべての悪の根である。」(テモテへの第一の手紙 6.10)
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイによる福音書 6.24)
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」(マタイによる福音書 6.19-21)
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マタイによる福音書 19.24)
「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」(ルカによる福音書 6.20)

 富んでいる立場から貧しい立場に降りていくことは「下降」とみなされるが、実はキリスト教神学の中にはこの「下降」そのものに積極的意味を見出す思想がある。それが「ケノーシス」と呼ばれるものだ。キリスト教では、神ご自身が肉をまとって人の姿で顕現された存在がまさにナザレのイエスであると信じているのだが、そうした行為そのものが「下降」にあたるのである。イエスは神としての身分を捨て、あえて貧しい人間にまで自らを空しく低くした。これを「無にする」という意味のギリシア語で「ケノーシス」と呼んでいる。その思想は、以下の聖句の中に端的に表現されている。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙 2.6-8)

 イエスは貧しい人間の姿になられただけではなく、十字架刑によって亡くなっている。十字架は犯罪人に対するローマの処刑方法であるから、十字架の死というのは、ただ死んだということではなく、犯罪人として処刑されたということである。キリストは人間の姿になったばかりか、人間から犯罪人として断罪され、拒否され、処刑されてしまったのである。そこまで徹底的に自分を「無にする」ことの中に、人間に対する神の愛を見出すという思想がキリスト教にはある。

 この伝統を受け継ぎ、キリスト教において「聖者」とみなされる人々は、イエスと同じ道を歩もうとした。フランシスコ会の創設者として知られるアッシジのフランチェスコは、自らは裕福な家に生れながらも、それらをすべて捨ててキリストに倣い、「清貧」をモットーとする修道会を創設した。彼の創設した托鉢修道会は私有財産を認めておらず、修道士が托鉢を行い、善意の施しによって生活をするもので、修道士たちは衣服以外には一切の財産をもたなかった。

 マザー・テレサはコルカタで、「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的とした「神の愛の宣教者会」を設立した。ここで働くシスターたちも、私有財産を持たない清貧の生活を守っている。マザー・テレサは次のように語っている。
「貧しい人に触れる時、わたしたちは実際にキリストのお体に触れているのです。食べ物をあげるのは貧しい人のうちにおられる飢えているキリストに、着物を着せるのは裸のキリストに、住まいをあげるのは家なしのキリストになのです」(半田基子訳『マザー・テレサのことば』、女子パウロ会、44頁)。

 キリスト教社会運動家として有名な賀川豊彦は、自らは裕福な家庭に生れながらも、キリスト教に入信したことをきっかけに、神戸の貧民街に移り住み、救済活動と宣教に努めた。ボランティア組織「救霊団」を結成して本格的な活動を開始するとともに、キリスト教を説き、精魂を尽くした彼は、「スラム街の聖者」と呼ばれるようになった。妻となったハルともスラム街で出会っている。ハルは結婚後、賀川とともにスラムで貧民の救済活動に献身した。不衛生なスラムの環境によりハルはトラコーマに感染し右目を失明したが、救貧活動を続けた。賀川自身も両眼ともトラコーマに冒され、何度も失明の危機を経験している。

 このように宗教の世界においては、豊かさや社会的地位を否定してあえて「下降」し、貧しい人々や社会の底辺にいるような人々の所に出かけて行って、彼らと共に生活することに「神の業」を見出すという伝統がある。祝福を受けた統一教会信者の日本人女性が、自分たちよりも学歴も社会的階層も低い韓国人男性のもとに嫁ぎ、経済的に苦しい生活をあえて受け入れていくのは、こうした宗教的伝統の延長線上にあると理解することができるのである。

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