『生書』を読む38


第九章 第一回御出京の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第38回目である。前回から「第九章 第一回御出京」の内容に入った。第九章では、大神様がいよいよ東京に出て行って教えを宣べ伝える様子が描かれている。

 大神様が東京駅に到着したのは、1946年(昭和21年)3月9日の朝であった。大神様は東京駅から高田馬場に向かわれた。これは宿所として準備されていた慈雲堂病院が杉並区にあり、西武線を利用することから、高田馬場で乗り換える必要があったからである。その高田馬場のホームで、大神様は東京における第一声を挙げられた。そのときの様子は『生書』には以下のように記述されている。
「高田馬場のホームで人波にもまれながら、東京における第一声のお歌説法である。お迎えした者は、その熱烈な救国の叫びに驚いた。物見高い江戸っ子はたちまち集まって来て、黒山の人だかりとなり、ホームをうずめ、交通も止まってしまうのであった。」(p.257)

 大神様の見た東京の様子は悲惨であった。あたりは一面焼け野原であった。焼け落ちた後の塀や煉瓦の壁がみすぼらしく並び、バラックが数えるほど建っているだけであった。それに加え、人々は敗戦後の生活苦と社会的混乱の中で、神を忘れ、国を忘れ、利己的な生き方をしていたのである。大神様が「よう我の巣を焼いたのう。おれの肚は『東京都屠殺場』と言いよるが本当じゃのう。」と言われたくらい、当時の東京は内外共に悲惨な状況であった。そこへ、いつもの歌説法がさく裂したのである。

 島田裕巳は、著書『日本の10大新宗教』の中で、天照皇大神宮教は極めて戦後的な新宗教であったと解説している。「戦前においては天皇は現人神とされ、崇拝の対象となっていた。その現人神が支配する日本という国は、『神国』とされ、神国の行う戦争は『聖戦』と位置づけられた。ところが、神国は聖戦に敗れ、一九四六年一月一日、天皇は『人間宣言』を行った。突然、神国の中心にあった天皇が神の座を降りることで、そこに空白が生まれた。サヨの肚に宿った神が、天照皇大神宮を称したのも、その空白を埋めようとしたからである。」(p.90-91)「日本の敗戦と天皇の人間宣言という出来事が起こることで、そこに生じた精神的な空白、現人神の喪失という事態を補う方向で、その宗教活動を先鋭化させた。天皇に代わって権力を奪取しようとしたわけではなかったが、空白となった現人神の座を、生き神として継承しようとした。」(p.102)

 『生書』の記述からは、敗戦による日本人の絶望感とアイデンティティーの喪失という状況に対して、新しい希望のメッセージを伝えようとする大神様の強い意志が感じられる。その意味で、島田裕巳の言うように、天照皇大神宮教は極めて戦後的な新宗教であったと言えるのであろう。戦後の日本人の心の琴線に触れるようなメッセージがあったからこそ、人々の支持を集めたのである。

 その後、大神様は高田馬場から西武電車に乗り、目的地の慈雲堂病院に到着された。挨拶と食事を済まされると、休みもとらずに早速のご説法である。こうして3月9日から4月2日まで25日間、大神様は慈雲堂病院に滞在され、午前9時から12時まで、午後1時半から5時までの2回の説法を、ほぼ毎日されたと記録されている。これは午前中は3時間、午後は3時間半で、1日に6時間半の説法をされたということであり、しゃべり続けるだけでもかなりの体力を要すると思われる。

 私も人前で話をすることが多いが、6時間話す内容を準備するのはかなり大変である。しゃべる体力以上に、話す内容が尽きてしまうからである。原稿やらパワーポイントとやらを準備して、4コマくらいに分けて講義や講演をすることは可能であろう。しかし、何も見ないで思いつくことを6時間以上にわたってしゃべれと言われたら困ってしまう。それは、頭で考えて話を準備しているからである。しかし大神様の御説法は原稿を準備されることもなく、定まった方式もない、自由自在に話される様式のものであった。すなわち頭で考えて準備する話ではなく、その場に集まった人々と交わりながら、心から自然と湧き出てくる言葉を語っているのである。天照皇大神宮教の世界観で言えば、「肚の神様」が語らせようとすることを語っているということになる。

 こうした能力は、カリスマ的な教祖に共通した力であると思われる。家庭連合の創設者である文鮮明師もまた、原稿なしで数時間にわたって説教し続ける人であった。私がアメリカの統一神学校に留学していたころ、ベルベディアという場所で行われていた聖日礼拝の説教を文鮮明師御自身が担当されることがあり、神学校から他の学生たちと共に車でそこに馳せ参じて、文鮮明師の説教を聞いたことが何度かあった。そのときの説教にも原稿はなく、自由自在に聴衆とやり取りしながら話をされ、説教の時間が3時間を超えることも珍しくはなかった。

 文鮮明師は信徒に対する説教だけでなく、国際会議や大会などの公式的な場において、対社会的なスピーチをすることもあった。そこには家庭連合の信仰を持たない一般社会の指導者たちが参加していたので、準備された原稿をもとに30分くらいで話をまとめるのが「常識的なやり方」であった。ところが文鮮明師はこうした対外的なスピーチにおいても、しばしば原稿を離れて自由自在に話し、信徒たちに対する説教と同じように振る舞いながら、スピーチの時間が3時間に及ぶこともしばしばあった。やはりカリスマ的教祖という存在は、話すべき内容が心の中から泉のように湧き上がってくるのであろう。

 東京における大神様の御説法は、金銭的な執着を戒める内容が多かったという。「抽象的な理論や観念的なものはひとつもなく、いつも具体的で、使われる言葉は日本の標準語ではないが、じっと聞いておれば、女でも子供でも老人でもわかるやさしいお話」(p.261)であったという。これは大神様の歌説法の内容からも納得がいく。それに比べると文鮮明師の説教には抽象的で理論的な内容が多い。文師の説教集や『天聖経』の内容を読んでみても、それは誰にでもわかる話とは言い難く、かなり難解である。同じカリスマ的教祖でも、語る内容にはそれぞれの個性があるようだ。

 さて、大神様が東京に滞在された25日間で説法を休まれたのは二日だけであった。そのうちの一日は生長の家本部道場に行かれた日であった。そのときの様子は本章の後半に出てくるが、なぜ大神様は生長の家を訪ねられたのであろうか? 

 島田裕巳は、著書『日本の10大新宗教』の第4章で天照皇大神宮教を紹介しているが、その中で「戦前にサヨは生長の家に入っていた」(p.88)と書いている。しかし『生書』にはそのような記述はなく、現役信者である春加奈織希(本名ではなくウェブ上の匿名)による「遥かな沖と時を超えて広がる 天照皇大神宮教」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~harukanaoki/index.html)でも、そうした事実は確認されていないと否定している。そればかりか、「天照皇大神宮教は他の宗教とは一切関係せず、他の教団や宗教連盟などとは絶対に手を組んだりしない、と大神様は仰せになりました。」と述べ、他宗教との交流関係を否定しているのである。

 『生書』の中には、大神様が知人であった岩国市の弁護士吉武三六氏から招待されて、谷口雅春氏の講習会に参加したことがあったことが紹介されている。ところが、その講習会に出ると、肚の神様は谷口氏に対して、下級の神が降りているだけだとか、短冊売りや本売りになり下がって邪神のおもちゃになっているとか、手厳しい批判を始めたのである。こうした記述からも、大神様が生長の家に何かを学びに行ったり、そこに弟子入りしたりすることはあり得ないと考えるべきであろう。ただし、谷口雅春氏や生長の家の幹部たちが、法華経の行者であった山口氏が大神様に屈服したのと同じように、大神様の弟子になるべく「準備された人物」であると考えていた可能性はあるかもしれない。そのことを伝えるために生長の家本部道場まで出かけて行ったのだが、谷口氏本人は大神様の言われることを悟ることができなかったようである。

 大神様が説法を休まれた日はもう一日あり、その日は総司令部にダーギン氏を訪ねたということなのだが、この出来事の詳細は『生書』には書かれていない。このダーキン氏とは、YMCA協力主事のラッセル・L・ダーギンであると思われる。彼は1919年に来日し、1942年まで青少年活動を指導した親日家である。その後一時帰国し、1945年にGHQ民間情報教育局青年部長となって再来日し、日米親善と青少年事業の発展にも貢献した人物だ。大神様が彼に会いに行った目的は不明だが、これも生長の家と同様に、キリスト教会が大神様の教えを受け入れる道を開くために訪ねて行ったのだが、受け入れられずに帰ってきたので、詳細が『生書』には記載されていない、というのが私の推理である。

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