実況:キリスト教講座52


質疑応答(3)

質問:カトリックの神学は、福音派と自由主義のどちらに近いのでしょうか?

回答:カトリックの神学はバランスのとれた見解ですね。たとえば自然神学を支持するという点ではリベラルに近いですけれども、倫理観はとても保守的です。他宗教に対する態度や、科学に対する態度は、昔はかなり頑なだったわけで、極めて排他的であり科学の成果と真正面から戦ったこともありましたが、時代とともにより寛容になり、科学の成果も認めるように変化してきました。神学や伝統を守りながらも、時代の流れに対して柔軟に対応しようという態度があります。カトリックというのは長い伝統があるので、奥行きと幅を持った教会でありまして、結構バランスがとれているんですね。プロテスタントはリベラルと福音派に分かれていますが、その両方を合わせ持ったような性質をカトリック教会は持っています。

質問:カトリックからプロテスタントが出てきた理由と言いますか、何が違ったので分かれるようになったのでしょうか?

回答:カトリックとプロテスタントの違いというのは結構複雑でありまして、そんなに単純には表現できないんですけれども、それを敢えて単純化して説明するとどうなるかというと、プロテスタントの基本原理というのは、「信仰の純粋化を求める」ということなんです。すなわち、初代教会の精神に帰ろう、イエス様の教えに忠実であろう、聖書に忠実であろう、純粋な信仰を持とう、というのが動機なんですね。

 キリスト教会の中にもいろんな人がいるわけですよ。あんまり信仰心のない人もいれば、世俗的な人もいれば、信仰熱心な人もいるわけです。その中で極めて信仰熱心で、神を強烈に求めている人がカトリック教会の姿を見ると、「なんでこんなに妥協しているんだろう。もっと純粋であるべきだ!」ということで改革運動をするわけです。そして、この妥協して世俗化されたカトリック教会から分裂して、一つの教団を作るわけです。これは純粋に神を求めていこうとする運動ですから、教えの性質は極めて極端になるわけです。ところがその教団が人をどんどん伝道していくと、その教会も大きくなるわけです。すると、教会が大きくなればなるほど、その中にいろんな人が入ってくるわけです。純粋な人もいれば、中途半端な人もいれば、あまり信仰的でない人もいて、教会が大きくなっていけばだんだん世の中と妥協しなければならなくなるわけです。

 そのようにして、最初は純粋だった教会がだんだん妥協して巨大化していくようになるんですね。その中に、「こんなことじゃいけない。原点に帰らないといけない。私たちの信仰は純粋でなければいけない!」という人が一部現れてきて、その巨大化して腐敗堕落した教会を批判して、また分派をつくるわけです。その人たちが純粋性を追求して、また一生懸命に伝道するわけです。そうするとまたそれが大きくなっていくわけです。そうするとその中にはまた、熱心な人もいれば、中途半端な人もいれば、世俗化された人もいるようになる、という同じことをくり返しながら、教派分裂が起こっていくわけです。だいたいこのようなシステムで、カトリックからプロテスタントの分離、そしてプロテスタント内部の教派分裂というのが起こっていったんです。キリスト教の歴史を振り返って、分かりやすく説明するとそういう感じになります。

質問:自由主義のキリスト教徒は、福音派の人々のようにイエス様の再臨を実際に起こるとは信じていないということでしょうか?

回答:一言でいえば、本気で再臨を信じていないということになるし、再臨を心から待ち望んでいるわけでもないということになります。そういう意味では自由主義の人たちは再臨待望というのは極めて薄いし、再臨がなければ救われないともあまり思っていないということです。カトリック教会にも再臨というのは概念としては存在しますが、カトリック全体が「再臨!再臨!」と言って待っているかというと、実はそうでもありません。そういう意味で、再臨を強く意識して待望しているのはキリスト教の中でも極く一部であるということになります。原理講論を読むと、クリスチャンは全員が根本主義者で、全員が再臨を待ち望んでいるかのように思うんですが、実際には、世のクリスチャンの多くはそんなに切実に再臨を待ち望んでいるわけではありません。再臨を否定しているわけではなかったとしても、再臨の待望を中心として日々の生活を送っているかといえば、そうではないということです。

 人間というのはかなり自己中心的な存在でありまして、終末論を信じる人々というのはほとんどが、いまの世の中に対して不平や不満を抱いている人たちなんです。「天変地異が起こってこんな世の中滅びて欲しい!」と思っている人々は、一種の破壊願望も伴って、「終末よ来い、メシヤよ来い」と待ち望むわけです。ところが、教会が成長してきて、カトリック教会のように立派な礼拝堂をいっぱい立てて、その宗教が社会を完全にコントロールするようになったら、逆に終末が来たら困るじゃないですか。自分たちの世が終わるわけですから。再臨なんか来てもらって、私たちの教会にいろいろ命令なんかしてもらっても、自分たちは既にこういう盤石な組織を持っているんだから、逆に来られても迷惑だということになってしまうわけです。ですから、再臨主を待ち望むとか、終末を待ち望むというのは、どちらかと言えば現状に不満を抱いて、世の中の改革を望んている群れの中に多く見られる現象だということになります。完全に主流派になって確立された教会の人々が世の終わりや終末を待ち望んでいるかというと、実はそうではありません。

質問:つい最近、新しく伝道されてきたメンバーの両親が反対牧師につながってしまって、説得によって離れてしまったという事件があって、とても悔しい思いをしました。それと同時に、私自身がきょう学んだような
内容を全く理解していなかったなと思いました。人を導いていくリーダーとしてどうあるべきかということについて、何かアドバイスがあればお願いします。

回答:ちょっと抽象的な質問で、うまく答えられるかどうか分かりませんが・・・。最近は監禁されなくても、反対牧師に会って説得されただけで離れてしまう人が結構多いんですよね。これは教会全体が抱えている課題です。昔は監禁しないと食口は離れない、監禁した場合でも相当説得しないと離れないと言われていたんですね。ところが最近ある反対牧師は、「監禁しなくても喫茶店で3時間話せば落とせる」と豪語しているんですよ。それぐらい、私たちのみ言葉による武装能力と言いますか、自分をみ言葉によって守る能力というものが、教会全体で低下してきているのではないかという、とても由々しき問題があるわけです。壮年壮婦の場合には、きちっと原理教育をされていなくて、むしろ周辺のいろんなことで伝道されてきて、原理がよく分かっていないままに信仰歴10年から20年という人もいるわけです。そういう人が反対牧師の説得で一発で引っくり返るような事件が起こっているんです。

 これは、み言を学び、み言によって生きるという、初期統一教会には強烈にあったものが、だんだんと失われてきているということです。最近は「監禁しなくても落とせる」と反対牧師に言わしめているくらい、私たちの教育力が低下しているという、非常に深刻な問題です。最もバカにされているのが『現代のエスプリ』という雑誌の、「カルト」に関する特集号の中で、ある反対牧師がこんなことを言っているんです。「昔は、原理講論の矛盾点を指摘して説得すれば食口は離れた。しかし最近は原理講論すら理解していない食口が多いから、まず原理講論の内容を教えてから、それを否定して離れさせないといけない。」と言っているんです。(笑)これは最高にバカにされていますね。しかし、それが現実だとすれば、原理で人を生かすという信念と教育というものが、私たちの運動の中で退化してきていることではないでしょうか。ですから皆さんは、原理をしっかりと学び、原理によって人が生きるという信念を保持していただきたいと思います。外的な小手先のテクニックや方法論ではなくて、み言の伝統を立てて頂きたいと思います。原理が信念として入ったら、ちょっとやそっとの説得では揺るがないというくらいの伝統を立てていただきたいと思います。

 直接的な答えになっているかどうか分かりませんが、原理に対する信念というものが最終的には人を救うし、反対牧師の説得に打ち勝つ力になるわけです。それは理論ではなくて、自分自身が神様と出会った体験に裏打ちされていなければならないし、それプラス、きょう学んだような、反対牧師が攻めてくる内容に対する研究をすることも必要です。それによって武装をして、兄弟たちを守っていかなければなりません。

カテゴリー: 実況:キリスト教講座 パーマリンク