書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』27


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第27回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第3章 統一教会の教団形成と宣教戦略」の続き

 櫻井氏は本章の中で、「教勢の衰退と資金調達方法の変化」というテーマを掲げ、統一教会の伝道が1980年代末で頭打ちになった理由について、統一教会の外部要因と内部要因の二つに大別して分析している。

 櫻井氏が1990年代以降の宣教停滞の内部要因として指摘しているのは、日本統一教会に韓国人の幹部が派遣されるようになり、その結果として、日本の統一教会が経済活動に専心するようになったことである。日本の統一教会の要職である「全国祝福家庭総連合会総会長」のポストに韓国人の幹部が派遣されるようになり、それ以降、日本の統一教会信者に対する献金の要請が激化したのだという。それまでは教会の外部に対する物販によって資金を獲得していたが、霊感商法批判によってそれが厳しくなった1990年以降は、内部の信者に対して多額の献金が要求されるようになり、現役信者からも嘆きが漏れるようになったと櫻井氏は説明する。要するに、韓国統一教会幹部によって日本統一教会が「財布」のような地位に貶められたために、宗教的本質を見失ってしまったということのようだ。櫻井氏の表現を借りれば、以下のようになる。
「統一教会の基盤が確立した一九八〇年代以降、信者の布教・教化では、教勢拡大(資金獲得、資金獲得のための新規信者獲得)が自己目的化した。何のために人を誘い、『原理』を教えるのか、ゆっくり考えるいとまもなく、ひたすら伝道と経済活動に明け暮れたのが一般信者の生活だった。」(p.100)

 こうした記述は、教会を内部から見つめていた元信者たちに対するインタビューと、彼らと長年にわたって関わってきた反統一教会のキリスト教牧師や弁護士などから得られた情報をもとに書かれていると思われる。こうした分析が正確で客観的なものであるかどうかに関しては、多くの疑問があり、そのまま鵜呑みにするわけにはいかない。教団の外部にいる牧師や弁護士たちは、「統一教会体験」を直接することができる立場にはないので、彼らの認識も結局は統一教会を離脱した「元信者」たちから得られた情報に依存している。櫻井氏が参考にしていている副島・井上両氏による『文藝春秋』1984年7月号の記事「これが『統一教会』の秘部だ ― 世界日報事件で『追放』された側の告発」にしても、教団を去った2人の元幹部が書いたものである。

 自分の所属する教団をどのように見つめるのかは、現役の信者であるか元信者であるかによって大きく異なるであろうし、そのどちらであったとしても、その人物が置かれていた位置、受けていた待遇、人間関係の良し悪し、その人自身の人間性や世界観などによって大きく異なるものである。櫻井氏の描く宣教停滞の内部要因は、あくまでも教会のあり方に対してネガティブな感情を抱いて教会を離脱した元信者の視点を通して原因を分析したものにすぎず、その分析が正しいという客観的な根拠がないものである。もしこの説明に同意する人がいるとすれば、その人はこうした元信者の感情や世界観に共鳴しているに過ぎず、状況の客観的な分析を行っているわけではないだろう。

 櫻井氏の説明で矛盾するのは、古田元男氏が実権を握っていたとする1980年代にはすでに統一教会は「集金マシーン」と化していた(p.100)と主張しているにもかかわらず、この時期に統一教会は最高の伝道実績を上げているということである。したがって、櫻井氏の言う「日本の統一教会が経済活動に専心するようになった」時代と、「統一教会の修練会に多数の若者が参加していた」時代は1980年代において完全に重なっており、経済活動に専心することによって宣教活動が停滞するようになったという論理は成り立たないことになる。

 私としては、日本統一教会が経済活動に専心するようになったために宣教活動が停滞したという櫻井氏のテーゼ自体を疑ってかかる必要があると思っている。たとえ日本統一教会が韓国統一教会幹部にとって「財布」のような存在であったという櫻井氏の主張が正しいと仮定しても、それが必ずしも日本統一教会が衰退する原因とはならず、却ってそれによって守られ、発展したという可能性もあるからである。このような逆説を理解する上で参考になるのが、島田裕巳著『新宗教儲けのカラクリ』(宝島社)の記述である。

 島田氏によると、新宗教にとって厄介な問題は金がないことよりもむしろ「金余り」の状態であるという。それは金が集まることが教団を堕落させる方向に作用することがあるからである。人は金がないときには、それを手に入れようとして創造性を発揮し、金集めに精を出す。それは個人の動機を高め、組織を活性化するなど、ポジティブな効果をもたらす。しかし、それが奏功して金回りが非常によくなり、余剰金が発生すると、ネガティブな効果をもたらすというのである。まず、幹部が金儲けや蓄財に走るようになり、贅沢な生活をしたり、教団の金を個人的に悪用したりすれば、一般信徒からの信頼を失う。さらにそれが利権化して、利権争いが始まれば、それが組織内における対立や抗争、分裂や分派に発展していくからである。すなわち、余剰金は個人を堕落させ、組織を混乱させる原因となるのである。島田氏は、日蓮正宗が創価学会から入ってくる潤沢な資金によって堕落させられたと分析している。そして創価学会は、余剰金が幹部に回らない仕組みを整えることによって、分派分裂を防いできたというのである。

 世界に貢献してきたにせよ、韓国に送金してきたにせよ、日本統一教会は国内で集めたお金の大半を自分の利益のために使わず、他者のために貢献してきた。そのことの故に、日本統一教会には莫大な余剰金が発生する余地はなく、結果的に幹部の腐敗堕落や分派分裂を防ぐことができ、さらには世界の統一教会の中で最も発展した組織となったという解釈も成り立つわけである。これは「他者の為に生きる者が神の祝福を受けて発展する」という真理の一つの実例であるかも知れない。

 櫻井氏の統一教会理解の問題点は、献金や万物献祭の意義を「罪深いエバ国家である日本はアダム国家である韓国に貢ぐのが使命だ」といような極めて稚拙で陳腐なものとしてしかとらえていないことだ。このような教説を聞かされただけで、ひたすらそれを信じて熱心に献金するような人々が統一教会の信者であると本気で思っているとすれば、それはよほどバカにしているか、極端に歪んだイメージを刷り込まれているとしか思えない。統一教会には、万物献祭や献金に関する高度でシステマティックな神学が存在する。その内容に説得力があるからこそ、統一教会の信者たちは熱心に献金をするのである。この問題に関しては当ブログの「宗教と万物献祭シリーズ」で詳しく扱っており、特に統一教会における万物献祭の意義については以下のサイトを参照していただきたい:http://suotani.com/archives/1200

 1980年代から1990年代への大きな変化は、実際には献金要請が激化したことではなく、日本統一教会のリーダーシップが日本人から韓国人に変わったことである。しかし、それが原因で伝道活動が停滞するようになったという分析が正しいかどうかは分からない。もしそうだとすれば、日本人と韓国人の間の文化的相克が有効なリーダーシップの発揮を妨げるようになったということになるのかもしれない。もう一つの大きな変化としては、1980年代に大量に伝道された若者たちが、1990年代に入ると家庭生活を営むようになり、少ない経費で動員できるマンパワーが不足するようになったことがある。また、「還故郷」の大号令によって、それまで「献身者」として専従的に活動していた青年たちが組織活動を離脱するようになったことや、活動の主力が青年から壮年壮婦にシフトするようになったことなど、80年代から90年代にかけての日本統一教会の変化は、私が思いつくだけでもたくさんある。そして、これらが結果として伝道実績にどのように影響していたのかについては、もっと広範で慎重な分析が必要であり、簡単に結論を出せるような問題ではない。

 したがって、櫻井氏の描く宣教停滞の内部要因は、極めて限られた視点から、限られた情報に基づいて描いた主観的な像に過ぎず、事態を正確にとらえているとは評価できないものである。1990年代以降に日本統一教会の伝道活動が停滞するようになったのが事実であるとすれば、これから伝道活動が復活するように対策を講じるためにも、なぜそうなったのかを総括する仕事は、櫻井氏ではなく、他ならぬ家庭連合(旧統一教会)自身が取り組むべきであると私は考える。

 さて、櫻井氏は本章の中で「祝福家庭の子供達と統一教会」と題して二世の問題に触れている。その内容は、「親が必死で信仰生活をしているのに対して、二世信者にとっては宗教は躾のようなものだ」「宗教文化を主体的に選択したという意識を二世信者は持たない」(p.101)、「二世信者は自ら入信したもの達と異なり、文化としての信仰を捨てることが極めて難しい。統一教会において祝福家庭の子供というのは、親の信仰なくして自分達の存在はないわけだから、親の信仰を捨てることは親との関係を切るだけではなく、自分が生を受けた意味を捨てることにもつながる。アイデンィティの危機に陥る」(p.102)といったものだ。これらは間違っているわけではないが、他の新宗教においても事情は同じであり、とりたてて新しい発見や興味深い事実を指摘しているわけではない。

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