宗教と万物献祭シリーズ05


統一教会における万物献祭

このシリーズでは、宗教における供え物、献金、布施、喜捨などを一括して「万物献祭」と呼び、こうした行為が伝統宗教と新宗教を含む宗教一般において広く行われており、信仰者の義務あるいは美徳として高く評価されてきたことを明らかにしてきました。その土台の上に、今回は統一教会における万物献祭の意義を分析します。統一教会の特徴の一つは理路整然とした「組織神学」にあるため、万物献祭の意味も極めてシステマティックに説明されています。

1.万物の存在理由
創造原理では、万物の存在理由は人間を喜ばすためであり、神は子女としての人間の喜びの生活環境を築くために万物を創造されたと教えています。神が人間に与えた三大祝福のうち、第三祝福に当たるのが「万物主管」であり、これは人間が万物を主管することによって成就されます。創造本然の主管には「内的主管性」と「外的主管性」の両面があり、内的主管性は愛による心情的主管を指し、外的主管性とは科学による物質世界の主管を指します。こうした内外の主管性を通して万物そのもの価値を最高に発揮させることが創造本然の万物主管です。
図1 人類始祖アダムとエバが堕落しなければ、創造本然の人間はこのような万物の主管をしていたはずでした。しかし、堕落によって人間はこうした内外の主管性を失ってしまったため、本来の万物主管が出来なくなってしまいました。結果として、万物は堕落人間の主管を受けるようになってしまったため、聖書には「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。」(ロマ8:19)と記されています。

2.万物主管と「所有」
創造本然の秩序は、神が人間を主管し、神に主管された創造本然の人間が万物を主管するようになっていました。このような真の人間が、神の愛による完全な主管をするとき、そこに万物を所有する資格が生じます。ところが、堕落人間たちはそのような真の愛がないにもかかわらず万物を所有しています。したがって、堕落人間による万物の所有は真の所有ということはできず、とりあえず管理を任されているということに過ぎないことになります。

愛のない主管は、我欲(サタン的動機)による利己的な主管であり、そこには真の所有権はありません。真の愛を持った人、公的に万物を主管することのできる人にのみ、真の所有権があるのです。

3.「メシヤのための基台」と万物復帰
『原理講論』は、後編の復帰原理の中で「メシヤのための基台」と関連付けて「万物復帰」の概念について説明しています。それによれば 「メシヤのための基台」は、「信仰基台」を蕩減復帰した基台の上で、「実体基台」を立てることによってつくられる、とされています。そして、献祭という観点から見れば、「信仰基台」は、「象徴献祭」を神のみ意にかなうようにささげることによって復帰され、「実体基台」は「実体献祭」を神のみ意にかなうようにささげることによってつくられるとも見ることができる、と説いています。これらは初めて接する人にとっては難解な概念の連続ではありますが、『原理講論』は「象徴献祭」と「実体献祭」の意義と目的を次のように説明します。

図2 神の創造目的である三大祝福は、①個性完成、②子女繁殖、③万物主管の順番で成就されるようになっており、これによって①父母、②子女、③万物が神の主管の下に入るようになっていました。しかし、堕落によってその三大祝福は達成されず、父母と子女と万物はすべてサタンに奪われてしまいました。したがってこれを復帰するためには、それと反対の経路に従って、①万物、②子女、③父母の順番で復帰しなければなりません。そのためにはまず、万物を復帰するための蕩減条件と、人間を復帰するための象徴的な蕩減条件とを同時に立てることができる「象徴献祭」をささげて、「信仰基台」を立てなければならなりません。次に、子女を復帰して、その上に父母を復帰するための蕩減条件を同時に立てることができる「実体献祭」をささげて、「実体基台」をつくり、「メシヤのための基台」を造成しなければなりません。

4.原理講論における「象徴献祭」
このように原理講論では「象徴献祭」は、万物を復帰するための蕩減条件と、人間を復帰するための象徴的な蕩減条件とを同時に立てることができる、と説かれています。原理講論が、「万物をもって『象徴献祭』をささげる第一の目的は、神の象徴的実体対象である万物を復帰するための蕩減条件を立てるところにある」というとき、分かりやすく表現すれば、それは本来の主人である神に「万物をお返しする」という意味になります。
したがって堕落した人間が供え物を捧げる第一の意義は、万物を神にお返しすることにあるのです。これはそれまで万物を自己中心的に主管していた立場にあった者が、物欲や執着を捨ててサタン分立し、万物を聖別されたものとして神に捧げることを意味します。これは前述のユベールとモースによる供犠の研究(宗教学辞典)でいえば、「聖化」のプロセスに当たり、未開宗教から普遍宗教に至るまで、宗教に広範に見られる現象と一致しています。

図3 原理講論は「象徴献祭」をささげる第二の目的は、「実体人間を神の方に復帰するための、象徴的な蕩減条件を立てようとするところにある」と述べています。これを分かりやすく表現すれば、「万物を通じて神に帰る」ということであり、私の代身として万物を神に捧げることにより、間接的に神との関係を回復していることになります。私自身の代わりに捧げる物ですから、私が苦労して獲得した血と汗と涙の結晶を捧げなければならず、自分の骨肉と同等の価値をもつ物を捧げることになります。そして、「私の代身として聖別いたしましたので、受け取ってください」という心情で捧げることによって、はじめて万物を通して象徴的に私が神と関わることができるようになるのです。これは前述のユベールとモースによる供犠の研究(宗教学辞典)でいえば、「媒介」のプロセスに当たり、これも宗教に広範に見られる現象と一致しています。

5.信仰実践としての万物復帰
統一教会では信仰者の基本路程を「7年路程」として位置づけ、これを万人の歩むべき公式路程であるとしています。私たち堕落人間の行くべき道は復帰の道であり、それはすなわち再創造の道でもあります。堕落によって失われた創造のプロセスを、もう一度象徴的に通過するということです。

図4 初めの創造において、神は万物世界(宇宙)をまず創造され、次に人間を創造されました、その次に人間始祖アダムとエバを祝福することによって、天国が実現するようになっていたのです。したがって再創造のプロセスにおいても、初めに万物を復帰するための歩みがあり、その次に人間を復帰する伝道を行い、霊の子女を立てて私たち自身が祝福を受けることによって、天国に入る資格が与えられるようになるのです。

このように、「万物復帰」は統一教会における信仰生活の最初のステップとして位置づけられています。

6.個人の信仰路程における万物復帰の意義
個人の信仰路程において「万物復帰」の路程は、旧約時代を蕩減するものであると同時に、神の宇宙創造を象徴的に再現する過程でもあります。神が全身全霊を集中して宇宙を創造された野と同じように、私たちも「再創造路程」においては無私・無我の境地で万物を復帰し、天に献金しなければなりません。

「万物復帰」の具体的な方法は時代と共に変わってきましたたが、このような基本精神と伝統は変わりません。それは外的には苦労が多い活動ではありますが、その中で与え尽くす犠牲の生活が身に付き、我々の信仰の基本姿勢として身に定着するようになります。その意味で「万物復帰」は最高の信仰の訓練であると言えるでしょう。霊界では蕩減条件ほど貴重なものはないと言われます。ですから、万物復帰の活動中に多くの汗と涙を流さなければならず、思い出の頂点となるような貴重な体験をしなければなりません。多くの統一教会の信徒たちがこのような「精神的な宝」を万物復帰の活動を通して与えられてきました。

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