アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳51


第6章 修練会に対する反応(2)

非入会者の経験

必ずしも全ての入会者が「統一原理」を全面的に受け入れているとは限らないが、非入会者たちのほぼ半数が講義はかなり多くの真理を含んでいると思い、9%がそれらを真理で「ある」と信じていたということは、ムーニーの教義は難解であるという広く信じられている考えを踏まえると(注4)、おそらく驚くべきことだろう。ある非入会者は、彼女が真理であると信じるようになったことが明らかにされたときに、非常に恐ろしい体験をしたと言った。彼女は次のように書いている。

私は感じた。人々が統一教会を非難するのは、会員たちが理に適ったことを言っているということを認めたがらないからだろう。恐らく大部分の人の心の中には恐れがあるのだ。会員たちは全ての疑問に対する答えを持っており、その答えがまさに本物なので、人は少し恐ろしくなってしまうのだ。多くの人は、日曜日の夕方に教会に立ち寄って、ちょっとお祈りをし、賛美歌を数曲歌って、それで義務を果たしたと考えている。私は最悪の罪人だ。そうしたことさえもしないのだから! 大部分の人は、この教会に入会するほど献身的ではない。聞く耳をもたない人もいる。彼らを迫害することに忙しいのだ。・・・私は、自分の人生において、神の存在を(激しく)感じてきた。私は自分のなすべきことを知っているが、それをしていない。それは、私が理解するには荷が重すぎると感じている。統一教会は、回答を確かに知っていて、これに関しては私の心に疑いは全くない。そして、私が疑いないと言えることは滅多にない。追伸:ところで、彼らは私を洗脳しなかった!

別の回答者は、彼が入会しないのは利己主義的な理由によるものだと認めながら(彼は修練会で最も好きでなかったことは、「室内では喫煙できないこと」だと記入した)、次のように書いている。

私は統一教会を完全に信じており、他の教会は統一教会に対して無知で傲慢だと思っている。統一教会は、心に神を持っている。ただ口先だけではない。

これと対局にあるのは、運動に激しく反対する人々だった。例えば、15歳でキリスト教に回心していた男性がいた。彼が言うには、キリスト教はしばらくの間は意味があったが、「より大きな興奮と充足感を与えてくれるように見えたセックスや麻薬、ロックンロールなどの新しい誘惑を受けるに連れて、冷めていった」。彼は統一教会について、次のように書いた。

統一教会は邪悪である。私はその全てが嫌いだ。私は会員を非難しない――彼らは邪悪なサタン的勢力の犠牲者だ。私は挑戦を受け、そして抵抗できたことをうれしく思う。人々はこうしたものにさらされるべきではない。我々は、文の崇拝者による情緒的な攻撃を受けることなく、自由に街を歩くことができなければならない。

孤独を感じていたジャマイカ人女性は統一教会を、面白い議論をして新しい友達を作ることができる「ディベート部」であると考え、その体験を以下の言葉で片付けた。

私はそれを、全くの知的はったりだと思った。文字に書かれた哲学を受け入れることはできなかった。ニセのインテリだと思えた。

しかし、大多数の人々は、全面的な信奉または拒否という両極端の中間に位置している。彼らは、教えの地位に対しては何らかの敬意を示す傾向にあるが、彼ら自身はそれらを受けいれようとはしない。よくある立場は、他の多くの神学と同じように、それらは信じることもできるし、信じないこともできるというものである。極めて典型的な反応は、あるマレーシア人のものだ。彼が言うには、彼は7日間のコースには進まなかった。その理由は、「時間を見いだせなかったからだ。それに、7日間もあんなに神聖な生活をすることはできないよ」ということだ。彼は次のように書いた。

統一教会の信仰は、その他のものよりもはるかに論理的であるし、いくつかの問題に対してはより良い解答を持っていると思う。他と同様に、彼らは愛と平和を信じている。だが、彼らは確かにそれを実現しようとしているし、良い方法を持っている。もちろん、彼らの「理論」の中には「信じられない」ものもある。もしあなたがより多くの宗教を「理解」するようになれば、どれが真理であるかを言うのは困難だということが分かるだろう!

別の回答者は、続けて7日間の修練会には行かなかった。それは「(参加費が)高すぎる(15ポンド)からであり、建設的な議論をしていないときには、受け入れられないことを聞いているのは退屈だからだ」という。彼は以下のようにコメントした。

ムーニーたちは、熱烈に文の教義を受け入れていることを除けば、合理性を失ってはいないようだ。私には、アングリカン教会の教区牧師もまた、彼の議論がより真剣な学求と聖書の研究に基づいていることを除けば、同じように非合理的に見える。

神学に対する評価のいくつかは、回答者がどのような「防御」を身に付けて修練会にやってきたのかについてのヒントを与えてくれた。元カトリック信者が書いたコメントには、寛容な無関心が示されていた。

そうしたものを好んだとしても、別に悪いことはない。私には退屈だった。

そして、すでに自らの信念を固く信じている人々もいた。その信念は、さまざまな形を取っていた。運動に対して次のように宣言したマルクス主義団体の労働者がいた。

宗教的な啓示に見せかけた資本家の思惑だ。文氏は自分自身を再臨のキリストだと考えているが、それはくだらないことだ。時間の無駄である。

フランス人の無神論者がいた。

彼らは愚かではない。兄弟愛の理想は素晴らしいと思う。だが、いかなる神も信じない場合、そのような信念を受け入れることは困難である。全般的に、(会員たちは)聡明な人々であり、愛想が良く、親切で、ほかの人々の考えにもオープンだ。しかし私は、彼らの生き方を共有したくない。自分の精神的充足は自分で達成したい。

77歳の根っからの探求者がいた。

いまのところ、神智学が最も私を満足させてくれた。だが、私は探求を続けており、他の教えに対しても心を開いている。

そして「本物の」クリスチャンがいた。

退屈で、非常に窮屈で、全く真理を見いだせなかった。そこに真理はなかった。1カ月で、彼らは人の心を植物状態にすることができた。・・・会員たちは、もはや自分自身の心を持っていない。彼らの信仰は心にあるが、堅固なものではない。教会とその実践は、「ただ」お金のためだけにある。・・・私の信仰は神にある。キリストは「私の言葉を聞いてそれを守るものは幸いである」と言った。そして戒めを守るものは、永遠の命を得るだろう。

 

(注4)例えば、デイリー・メール紙裁判における判事の最終弁論を参照せよ。(訴訟の詳細については第5章の注2を参照せよ)

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