アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳53


第6章 修練会に対する反応(4)

教えはさまざまな知的反応を生み出しただけでなく(極度に退屈だと感じた者もいたし、ものすごく刺激的だと感じた者もいた)、非常に異なった情緒的な反応をもたらした。自動車事故で夫を亡くした若い婦人にとっては、霊界と死後の生について話す良い機会を持てたことは、大きな安堵感をもたらしたという。「人生で初めて、そのようなことについて話すのがおかしなことだとは思わない人々と出会った」と語った。しかし、いったん入会することになるがその後に脱会した別の女性の体験は、はるかに憂慮すべきものだった。(事実、このアンケートに対する回答の中で最も憂慮すべきものだった。)彼女は次のように書いている。

 二年前に仕事をしにロンドンに出かけたとき、私はスピリチュアリズムに強い関心を抱いた。人生にはもっと大事なことがある、と私は常に感じていた。スピリチュアリズムは私の疑問の多くに答えてくれた。例えば、神は本当に審判の神なのか、天国と地獄の本当の意味とは何か。人間の自由意思とカルマの関係。またイエス・キリストにも深い感情を抱いていた。彼はいったい何者なのか、死ぬ運命だったのか? (統一)教会で私は、キリストの使命について学んだ。深い研究の結果は、私を非常に驚かせた。すべてのことが激しくバランスを失った。人間はあまりにも邪悪であり、この世に生きているよりも自殺をした方がましだと感じた。・・・

入会したときには、私は生きる価値があり、働く価値があると感じた。・・・修練会を離れた後、私は全く異なった視点からあらゆることを見た。…あらゆることが非常に邪悪に思えた。…

私は約5カ月後に運動を離れた。最初、私は生き延びることができないと思った。統一教会は、完全に自分のエゴを取り除く。人生が非常に恐ろしくなる。私はXと一緒に離れた。彼も同様な反応に苦しんでいる。それ以来、わたしたちはお互いにより協力できるようになったと感じている。もちろん、こうした子供じみた恐れや、深い憂鬱に戻ることもあるけれども。私たちの神と霊界への信仰は、完全に破壊されたわけではない。

アンケートそのものは、洗脳、マインドコントロール、または過度の圧力にはっきりと言及しなかった(表4と表6の予め準備された回答でそれに最も近いことが示唆されているが)。しかし、数名の回答者は自発的に、自分たちは入教するように圧力を受けたことはまったくなかったという意見を述べ、確かに自分たちは洗脳されなかったと主張したのである。ほぼ同じ割合(約4分の1)の者が、(軽い苛立ちを感じる程度の)ある種の圧力を感じたか、あるいは常に監視されていたり(それほど多くはないが)罪悪感を覚えさせられたので居心地が悪かった、と語っている。非入会者で自分が洗脳されたとは主張した者はいなかった。ただし一人は、講義を聴いたことが無意識に自分の考え方に影響を与えたかもしれないという、いくぶん不確かな気持ちを表明している。そしてその他に二人の非入会者が、自分たちよりも弱い他の者たちが操作されたかもしれないと心配していた。しかし数名の「離教者」は、何らかのマインドコントロールを受けていた可能性があると示唆した。そしてさらに数人の回答者(非入会者と離教者の両方を含む)は、ムーニーは全般的に本当に献身的で誠実であるとみなしているが、彼らは洗脳されたか、見当はずれの理想主義に基づいて行動しているか、あるいは騙されて他人に行動を仕向けられている、といった懸念を表明した。この点についての最も強力な発言は、四人の離教者から出てきた。そのうちの一人の言葉は、すでに引用した。二人目は次のように書いている。

 学べば学ぶほど、私は驚き、また幻滅していった。私、あるいは私の魂の永遠の「邪悪さ」に加えられた圧力に耐えられなかった。

一言でいえば、統一教会の会員たちは基本的に善良で、健全な人たちであるが、騙されているのだ。この人たちの説明する精神的なエネルギーが、(「偽のキリスト教」運動ではなく)キリスト教運動に向けられたら、世界は本当に彼らの行動から恩恵を受けるだろう。

三人目は、40代の学士でホームチャーチ会員になったが、その後離れた。彼女は次のように書いた:

 私は自分が教義を植え込まれやすいと感じるようになり、それですぐに身を引くことにした。統一教会の会員たちから生じる、人々に対する一見純粋そうな愛情は、強力な武器だ。しかし、それは純粋に見えるだけなのだ。私は、多くの側面が非常に嫌いになったが、それは例えば、ファンドレージング、自己否定、結婚相手を決められること、自己の喪失、文師と彼の言うことの全てを疑いもなく受け入れることだ。

第四の離教者は、この運動が恐ろしい影響を持っていると感じており、次のように書いている。

 元ムーニーとして、私は会員たちに怨みを抱いていないが、むしろ自分自身の騙されやすさに驚いている。あのとき離れていなかったら、手遅れになっていたかもしれない。私はもはやこの運動の流れに従って泳ぐことができなくなっていたので、出ていくか沈むかの決断をした後、私は本当に自分自身の正気を疑った。

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