神学論争と統一原理の世界シリーズ22


第五章 救世主(メシヤ)について

3.イエスは神か人間か?

イエス・キリストは神か人か? この問いに対する伝統的なキリスト教の答えは「両方である」というものだ。正確には「真に神であり真に人である」(カルケドン信条)という表現がされている。ここでいちいち「真に」とつけたのは、半神半人ではなくて正真正銘の神であると同時に、正真正銘の人であると言いたいためだ。だが例えば、ある一つの果物がミカンであると同時にリンゴである、しかも半分ミカンで半分リンゴなのではなくて、完全なミカンであると同時に完全なリンゴであると聞いたら、皆さんはそのような物の想像がつくだろうか? 神に関することは我々の日常的な理性では判断できないとはいうものの、この「キリスト論」と呼ばれるものは極めて難解だ。

はるか昔、西暦325年に開かれたニケア公会議と、451年に開かれたカルケドンの公会議で、三位一体論とキリスト論に関するキリスト教の正式な見解がまとめられた。そしてこのニケア・カルケドン信条を受け入れるかどうかが、今日に至るまでキリスト教であるかどうかを見きわめる重要な試金石になっている。三位一体論を認めないユニテリアン主義者など、必ずしもこの枠に納まらないキリスト教も存在するが、キリスト教における「正統」の範囲を決定する重要な枠組みとなっていることは確かだ。そのような重要な枠組みが、先に述べたような不可思議な内容になってしまったのは、一体どうしてなのだろうか?

神として奉られたイエス
これはキリスト教神学の中で、イエスが人間から徐々に神の位置へと奉られていった過程を理解しなければ解けてこない。もともとユダヤ人たちが待ち望んでいたメシヤは人間であり、神ではなかった。モーセの十戒の一番初めに「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」とあるので、ユダヤ人たちにとって人間を神とすることは偶像崇拝の罪に当たるからだ。ユダヤ教におけるメシヤは「神に油を注がれた」人間、すなわち王を意味するのであり、具体的には民族を他国の支配から解放してくれる政治的な救世主がイメージされていた。これが次第に雲に乗ってやってくる「人の子」のような神秘的な存在として待ち望まれるようになっていったわけだが、ユダヤ人はメシヤを神そのものと考えたことはなかった。

イエスの弟子たちは、そのようなユダヤ教的な伝統のもとでイエスをメシヤとして受け入れたわけであるから、当然イエスを神だとは思っていなかった。しかしイエスの死後、異邦人たちにキリスト教が広められるようになると、イエスは徐々に神の位置にまで高められていくようになる。異邦人たちは、ユダヤ人たちがもつメシヤに対する概念や、イスラエルの政治的な解放には興味がなかった。そこでイエスのアイデンティティーは、ユダヤ人の政治的な救い主としての「メシヤ」から、民族的な色彩のない「真理そのもの(ギリシア語でロゴス)」へと変えられていく。この真理は永遠の昔から普遍的に存在するものであるから、イエスは彼が地上で宣教活動をするよりはるか昔、天地創造の以前より存在しており、一時期地上に降り立って、再び天に帰っていった存在であると考えられるようになったのである。これが「キリスト先在論」である。かくしてイエスは神のごとき存在となっていった。

イエスを神格化した背景
このようにイエスを神であると見るようになったのには、イエスが全人類を救済することのできる絶大なる力を持った「特別な存在」であることを表現したかったという背景があったように思われる。当時の世界観では神は尊く力ある存在で、人間は罪深く弱き存在であるという観念が強かったので、人間を救ってくれる存在はあくまでも神でなければならなかったのだ。しかしそれと同時に、イエス・キリストは人類の罪の身代わりとして十字架にかかることによって救いをもたらしたのであるから、彼は人間でなければならない。キリストは人間としての痛みや苦しみを身を持って理解しなければ、人間を救うことはできないのである。

神と人間との間には、到底埋めることのできない深い断絶があり、その溝を埋めて神と人類を和解させるためにキリストは来た。だからキリストは神と人間の両方の性質を持っていないといけない。かくしてキリストは神であると同時に人であるということになったのである。しかし、ではそのキリストの中で神としての性質と人としての性質がどのように結びついているのかという段になると、それらはもともと一つになりえない異質なものであるから、説明できなくなってしまった。これが先に述べたカルケドン信条が不可思議な内容になってしまった理由である。それは理論的に不可能なことを説明しているので、これを合理的に解釈しようとするものはすべて異端として断罪されるという結末となった。(注1)

このようにキリスト論がおかしなものになってしまったのは、神と人間との間の断絶を「存在論的なもの」としてとらえたためだ。だから三位一体論もキリスト論も、「神か人か」という存在論的な論争にあけくれて、結局は合理的な結論に至らなかった。

メシヤとは真の人間のこと
「統一原理」はこれに対して「イエスは人間だ」と明確に答える。それではイエスの神性を否定しているのかというとそうではなく、神性はもともとすべての人間に宿っているものであると主張するのである。「統一原理」によれば、もともと神と人間は親子の関係であり、ちょうど子が親に似るように、人間は神のごとき性質を宿すはずであった。しかしこれは人間が神そのものになるという意味ではない。そんなことは不可能だ。神と人間はあくまで別々の存在であり、このこと自体は「断絶」ではない。人間でも親と子は別々の肉体と人格を持っている。そのことは別に問題ではなく、親子が愛し合っていないことが問題で、それを「断絶」と言うのだ。互いが信頼しあい愛しあっていれば、親子の断絶は存在しない。

図8

図8

これと同様に、神と人間との間にはもともと「埋めがたい断絶」というものはなかった。しかし子としての人間は親である神を裏切り、堕落することによって両者の間に断絶が生じてしまった。これは存在論的な断絶ではなく、心情的な断絶である。メシヤはこの心情的な断絶を埋めるために来るのであるから、神である必要はない。むしろ人間の代表として罪を償い、神と人間を和解させる心情的な架け橋とならなければならない。メシヤのユニークな点は、神との間に断絶がなく、本当の親子の関係を結んだ人間であるという点だ。そのためには罪があってはいけない。すなわちメシヤは原罪のない「真の人間」でなければならないということだ。このように「統一原理」は従来の難解なキリスト論をすっきりと解決しているのである。【図8】

 

<以下の注は原著にはなく、2014年の時点で解説のために加筆したものである>
(注1)キリスト論には以下の5タイプが存在し、①~④はすべて異端として断罪された。①結局「人性」しか認めない(エビオン主義)、②結局「神性」しか認めない(仮現論、コプト教会)、③半神半人(アポリナリウス:イエスは人間の肉体を持つが、霊魂が神のロゴスと入れ替わっている)、④「神聖」と「人性」が混合して、神でも人間でもない第三の存在に(エウティケス)、⑤全き神であると同時に全き人(正統信仰の立場)。
カルケドン信条(451年)においてキリストの神性と人性とは、「二つの本性において、混合されず、変化せず、分割されず、分離されない」と定められたが、そもそも混ざっても分かれてもいない状態というのは矛盾しており、そのような状態を合理的に考えることはできない。

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