アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳52


第6章 修練会に対する反応(3)

 

すでに明らかであると思うが、回答者の多くは、メンバーたちに好意を持ったり敬服したりしている自分に気付いている。時には、彼らをむしろかわいそうに思っていることもあるだろうが、一般的に、彼らの献身と熱心さを認めている。個々のムーニーが嫌いだという回答者も数名いたし、全てのムーニーは洗脳されたゾンビだと片づける者も1、2名はいた。だが、ムーニーに対する最も多い批判は、彼らが「あまりにも」親切で、「あまりにも」献身的であるということだった。次のコメントは、ムーニーの親戚がいる若い女性のものだ。

そうね、会員たちはいい人たちで、大部分はXさんのように、その信念を本気で信じている人たちね。でも、組織の背後に何があるのかは、誰も知らないんじゃないかしら?・・・どうして彼らはあんなに親切なのかしら。あまりにも親切すぎるわ。

別の回答者は、運動の中に現実主義が全般的に欠如していることに気付いてうんざりした。

彼らの信仰は、あまりに「肯定的」すぎて、今日の日常生活に対しては何の意味もないと思う。彼らの価値観と実践では、とても現代社会と関わることはできない。私には、会員たちは全体的に現実から逃避して有頂天になっているように見える。私にとって、彼らはあまりにも「親切」で「善良」で「好意的」であり、現実の人間として関わることができない。

ある極めて典型的な「旅行者」はこの国に来てわずか三ヶ月のアフリカ人であり、自分は社会にとけ込めていなかったと彼は言った。彼は、統一教会は「ガイアナで起きたジム・ジョーンズ牧師の大惨事と似たようなセクト」であると聞いていたにもかかわらず、7日間のセミナーに参加することに合意した。その理由は、「いつも家にいることに退屈していて、ロンドン郊外の場所を見て、農場で生活するには良い機会だったからだ」。21日間のコースを開始するところまで進んでいったが、修了はしなかった。というのも、

それは自分が本質的に同意しない内容に余りに多くの時間を浪費することになるし、講義には飽き飽きしていた。私は彼らの教えにも、そのやり方にも同意しない。彼らは人々に罪悪感を持たせることを重要視しすぎているし、教条的に原理を信じ込んでいるので、人々は彼らと話すのに飽き飽きしている。・・・会員たち自身はよい人々で親しみがもてるが、彼らと話すのはむしろ退屈であり、面白くなかった。それは一つのことだけ、つまり彼らの「統一原理」にだけ熱中しているからだ。

一部の回答者は、キャンプKの修練会で私と一緒だったゲストのように、彼らが入会しないつもりだということを明らかにした時点で、あるムーニーとの友情を維持するのが困難になることが分かり、むしろ傷ついたり失望したりしたと報告した。しかし、その他の数名は、ムーニーの友人たちの1、2名といまでも連絡を取り合っていると言い、彼らと深い精神的な関係を維持しているとしばしば主張した。ある極端なケースは、次のように告白するイギリス人だ。

正直に言うと、私はメンバーの一人を好きになり、理想の相手に出合ったと思い込んでいた。わたしは極端な反統一教会ではあるが、自分の国にいる彼女といまも連絡を取っている。私の結論は、彼女が教会に関わるようになったのは、自分の家族から遠く離れていたので、そのために教会により依存するようになったということだ。最近行われた教会についてのプログラムの後、私は彼女と連絡を取り、真実を告げようとしたが、全く無駄だった。

より一般的な体験は次のようなものだ。

メンバーの一人と知り合いになって二週間もすると、社会的な基盤の上でその人と友人になりたいという私の望みは、極めて非現実的であることを悟った。これが修練会に参加することに同意した理由だったので、私はかなり早い段階で、その人類に対する表面的な喜びの発露からは何も得るものはない、という結論を下した。大部分のメンバーは表面的には非常に幸福であったので、私のような人間は、皮肉な態度をとらざるを得なかった。それは単に、報道を通じて聞いていたことと目の前の経験を調和させることができなかったせいなのかもしれない。このように最初は興ざめしたものの、私はそれでもメンバーの多くの献身には強い感銘を受けていた。私を教会に紹介した人からは、今も定期的に手紙をもらっている。・・・単に連絡をくれというようなステレオタイプ型の手紙ではなく、彼らは自分たちの希望、恐れ、そして精神的な願望などについての非常に個人的なメッセージを送ってくる。自分たち自身に対するこの非常に肯定的な姿勢、・・・そして彼らの多くが世界中を旅して彼らの話を広めようとしているという事実・・・これらは本当に称賛に値する。(たとえ私が彼らの言うことの全てに同意しないにしても)。

統一教会を拒絶する理由として最も一般的に挙げられるのは、「統一原理」が真理であるとゲストが信じないというものであり、つまずきの石として最も多く言及されるのは、文がメシアかも知れないという考えである。文とその部下によって蓄積された財産もまた、非常に頻繁に話題に上った。いったんは入会に合意したが後に取りやめた(理由の一部は両親からの圧力があったからだが)ある回答者は、次のように書いている:

彼らとの接触はすべて終わったが、彼らのことはいまでも大切に思っている。彼らは誰に聞いても本当に素晴らしい人々で、より良い世界を造ろうとしている。しかしそこに文鮮明師の問題が入ってきて、私は彼を受け入れらなかった。そしてもちろん、もし彼を受け入れられなければ、それはすべての議論を破壊するのだ。残念なことにムーニーたちは、それに関しては妥協を許さない。彼らは素晴らしい人たちだけに、それは恥ずかしいことだ。

もう一人の回答者はホームチャーチ・メンバーとして入会に合意したが、彼女は後に心変わりした:

私には疑わしいと感じられる部分が教えにはあった。そして、統一教会員になるには自分を100%捧げる必要があると感じたが、そうしたくはなかった。自分の仕事やその他諸々があったからだ。もっと多くの人が統一教会を見るべきだと思う。彼らのやり方や考え方には良い面もあるからだ。私がフルタイムで入会はしないと決めたときに、留まるように圧力をかけられることはなく、自分の望むことをさせてもらえた。

しかし、「嫌気がさした」としてよく言及されるもう一つの点は、運動の権威主義的な態度である。

私は概して何をすべきか言われるのが好きではない。ムーニーは人生をいかに生きるべきかについて人々に語ることに夢中になっている。

運動の反共的な立場に反対する人も数人いた。そして厳格なピューリタン的な道徳基準に不満を言う人(ホモのカップルを含め)もいた。

 奇妙なことに、統一運動のこうした側面の多くは、他のゲストにとっては主な魅力であると表明された側面に含まれていた。アンケートが極めて明確にしたことは、ある人にとっての肉は別の人にとっては毒である(人によって好みは違う)ということだ。料理のすばらしさを称賛する回答者がいると思えば、食事は退屈で面白くないと不平を言う人もいるであろう。熱狂的なグループ活動を嫌がるゲストもいたが、一方でそれを楽しくて刺激的だと感じる者もいた。運動の全てが嫌いだと言い、修練会を嫌がる者も数名いた。別の非入会者は、修練会がこれまでの人生で過ごした最高の週末の一つだったと言った。

 

 

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