アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳50


第6章 修練会に対する反応(1)

身体的な強制(「肉体の拘束」「脳のコントロール」「生物学的な感受性」などの形による)が、ある人がムーニーになる原因であるという証拠は見いだせなかったので、私の次の疑問は、精神的な強制が引き起こされているという証拠があるかどうかだった(注1)。表4(p.138)の第三の型の状況として描かれた「マインドコントロール」の定義は、修練会ではムーニーがゲストの現実に対する見方を完全に操作できるので、ゲストはムーニーが望むようにしか現実を解釈できないというものだった、ということを覚えているであろう。大多数のゲストが運動に入会しなかったという事実は、統一教会の説得のテクニックが、このような極端な状況が暗示しているほど強力ではないということを示唆している。また第6の状況である「ユートピアの約束」は、ムーニーたちがそう信じたがっているほどには、抵抗できないものではないことを示唆した。その代わりに私が示唆したのは、ゲストが修練会にもたらすもの(彼の性格、傾向、記憶、社会経験)が、なぜある人々は入会し、別の人は入会しないのかを決定する上で、重要な役割を果たすだろうということであった。しかし、私は修練会がゲストたちによってどのように解釈されたかについての情報を集めたかった。

ある段階で、新会員になりそうな人たちは、統一教会のセンターと修練会を、私が第4章で描いたように見るだろう。だが、彼らの認識は確かに部分的には客観的に「あそこに何があるか」に依存するが、同時にまた彼ら自身の性格、以前からの期待、希望、恐れ、好き嫌いなどの選択のメカニズムにも依存するであろう。ゲストたちはただ微笑んでいる顔を見るだけではなく、それを友好の印か、あるいは本心の隠蔽として経験するであろう。彼らはただ講義を聴くだけではなく、それらを興奮させる新しい真理として、または退屈なゴミの山として解釈するであろう。彼らはただ単に若い人々と共に週末を過ごすのではなく、それを新しい挑戦のスリルであったり、退屈で、当惑させる、あるいは少し面白い2日間として経験するか、あるいは恐ろしい閉所恐怖症として経験するであろう。
ほぼ同じ客観的体験(すなわち、1979年のロンドン地域での修練会)を共有した一群の人々に対して、彼らの反応がどのようなものであったか質問することによって、私は主観的反応の多様性を記録することができた。そしてこの多様性は、統一教会によって提供された選択肢を解釈する上で、個々のゲストの性格が有している相対的な重要性および影響を、いくぶん示すことができるのである。

この章でこれから使用する言葉の意味を明確にしておこう。特に明記しない限り、「ムーニー」はフルタイムのムーニーを指しており、「離教者」は運動に入会したが、短期間(最大でも数週間)(注2)で離れた者を指しており、「非入会者」は少なくとも2日間のセミナーや修練会の一部、場合によっては21日間の修練会の全部に参加したが、実際には一度も運動に入会しなかった人を指している。「対照群」は、ムーニーたちと同年代で同様な社会的な背景を持つが、運動とは直接的な接触がなかった一群の人々を指している。「ヨーロッパ」は、イギリスを除く大陸ヨーロッパを指している。イギリスと、アメリカやヨーロッパのムーニーの間に明らかな差異があるときは言及されるであろう。そうでなければ、「確かな」データはイギリスに関するものであり、その他のヨーロッパや北アメリカにおける運動に対する私のいくぶん組織性に欠ける調査と、研究結果が矛盾しないとみなしていただきたい。この分析は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの状況については言及していない。

表6

表6

実際よりも多少典型的と思われるような反応を選択する危険性を想定すると(第1章、第5章で議論した)、修練会をどう評価するかの質問に対する回答の「相対的な分布」についてある程度考慮することが重要である。これは表6で示されている。見れば分かるように、反応は、非入会者たちからのものであっても、かなり好意的であった。ムーニーとともに(少なくとも)二、三日を過ごした後に、運動に入会することもなく、またムーニーや運動が耐えられないほどにひどいものであると信じることもなく終わる、ということも全く可能であるように思われる(注3)。
入会した人々は、講義が「真理」を含んでいると信じたのだと思うかもしれないが、決して全ての入会者たちが、それをすぐにすべて真理だと考えるわけではないことは明らかである。私は、「原理」のある部分について深刻な疑念をもった(そして、いまでも疑念を抱いている場合もある)ことを認めるムーニーたちと話をしたことがある。あるムーニーは恐らく仲間の会員たち数人を代表して話をしているのだろうが、彼は入会したときに「統一原理」は自分が知っているどの信仰よりも理にかなっていると思ったが、後ほど考え抜いて決めるための「未決済書類入れ」に入れておくことに決めた事柄がいくつかあったという。このような「未決済」の問題は、「一段と理解が進む」ことで解決されるかもしれないし、忘れることになるかもしれない。あるいは、会員の心の奥底で彼を苦しめ続け、次第にさらなる疑問が加わって、最終的には運動を離れさせることになるかもしれない。

(注1)この章の多くは、アイーリン・バーカー「逃げた者たち:統一教会の修練会参加してもムーニーにならない人々」R・スターク編『宗教運動;創世記、出エジプト記、民数記』ニューヨーク、シャロンのバラ出版、近刊予定、およびアイーリン・バーカー編「神々と人間について:西洋における新宗教運動」、ジョージア州アトランタ、マーサー大学出版、1984年を要約したものである。
(注2)「離教者」は「背教者」(ここではわれわれの関心外)とは異なる。後者は離教する前に数ヶ月間あるいは数年間運動にいた者たちである。
(注3)ホームチャーチ会員やCARP(学生)会員として入会した人々からの回答は含まれていない。それは数が非常に少ない(それぞれ11と13)ので、十分に比較できないからだ。だが大まかに言って、彼らはフルタイムの入会者よりも修練会にたいして感謝を示しているようだ。第9章の中の一節は、ホームチャーチ会員の特徴について扱っている。

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