第2章 統一教会:その歴史的背景(1)
韓国における運動の起源
統一教会の正史はいまのところまだ存在せず、運動あるいはその創始者・文鮮明師の若年期について語られてている話のいくつかを検証するのは難しい。しかしながら、文が八人兄姉の第五子として、北朝鮮の平安北道定州の農家に、1920年1月6日(この日付は韓国で使われている陰暦のカレンダーで数えられている)に生まれたことは確かなようである(注1)。文はもともと文龍明という名前だったが、25年後に文鮮明と改名したと報告されている(注2)。彼の家族は、文が10歳のときにキリスト教の長老派に改宗し、彼は若き日に日曜学校で教えた(注3)。
当時、その出来事は公表されなかったようであるが、文は後に、1936年のイースターの日にイエスが彼に現れて、神が彼を地上天国建設の使命のために選んだことを啓示した、と報告している(注4)。文は「人生と宇宙の根本問題を解決するため、…無形世界(=霊界)をさまよわれた。…サタンの勢力との死闘を続け…真理探究の血みどろの苦難の道を歩まれた」(注5)。その後9年以上にわたって、文は祈祷と瞑想と宗教教典の研究を通して、そしてイエス、モーセ、仏陀のような重要な宗教指導者たち、また神ご自身との直接的な霊的対話を通して、啓示を受けたと言われている(注6)。これらの啓示は韓国で弟子たちによって書き記され、1957年に最初の教本が現れた(注7)。次の教本は『Divine Principle』(訳注:『原理講論』)として英語に翻訳されて出版され(注8)、統一教会の公式な教義として使用されてきた。原理のさらなる解説が今日まで書き記されてきたし、今もなお書かれ続けており(注9)、地上天国建設の仕事において成される進歩によって決まるであろうが、さらなる啓示が公表されるであろう、と発表されてきた。(注10)
より世俗的な次元では、文は自分の村で伝統的な漢文教育を受け、十代には西洋式の小学校へ通い始めたということだ(注11)。1938年に彼はソウルの高校へ行き、1941年には日本の早稲田大学に電気工学科の学生として入学した(注12)。1943年に彼は韓国へ帰国し、建設会社の電気技師としての仕事を見つけたが、翌年、学生時代に彼が従事していた(日本からの韓国の独立を支持する)政治的地下運動のゆえに、日本警察によって逮捕され、四カ月間拷問された(注13)。第二次世界大戦が終了し、韓国が日本から解放された後、文は全面的な宗教活動を始め、1946年6月6日に北朝鮮の平壌に行くよう啓示を受けたと言われている。彼はこれをすぐに実行した。そのとき彼の当時の妻には二カ月の子供がいたが、彼女はそれから6年間、彼に何が起こったのかを知らなかった(注14)。
平壌において文は独立したクヮンヤ教会を設立し、彼の新しい啓示を受け入れる人々を集め始めたが、「無神論者の共産党が彼を嫌悪した」(注15)と言われている。8月に、彼が異端的教義を教えており、韓国大統領のスパイであるという噂に従って(注16)、共産党の警察は彼を逮捕し、投獄した。
「彼は拷問され、激しく打たれ、食事と睡眠の両方を奪われた。…遂に彼はあまりにも激しく打たれたので大量の血を吐き始め、看守たちは彼が死んだと思った。彼らは、警察署のそばで埋葬されるのを待っている死体の山へ、彼を放り出した。 そこで弟子たちが彼を見つけ、家へ連れて帰った。彼らは彼が死ぬものと思って葬式の準備を始めたが、弟子たちの献身的な看病と漢方薬の助けもあって彼は回復し、以前にも増して力強くメッセージを宣べ始めた。」(注17)
再出発した彼の努力は、さらに多くの弟子たちを集めた――そしてさらなる不満をも。彼は1948年2月に再び逮捕された(注18)。 彼の最初の弟子の一人である金元弼は、文の裁判では、共産党は神は人間がつくったものだと教えていたのに対し、文は神を信じているがゆえに気が狂っているということを示したかったのだ、と書いている(注19)。
「共産党はまた、お父様(文)が人々の喜びと貴重な財産を奪うために、彼らを騙しているのだということを証明しようとしました。教会は常に会員からの献金で運営されているので、宗教指導者を非難することは彼らにとって非常に簡単でした。今日、アメリカにおいて教会は同様の原理で運営されています。」(注20)
金氏はまた、運動に入会しつつあった女性たちは、彼らの結婚が文によって祝福されるまでは処女のように生活するよう、神から教えらえていたと報告している。彼女たちの夫は、このような文の役割について疑い、結束して、彼は自分たちの家庭生活を邪魔する異端だと呼んだ。これは、他のキリスト教牧師たちが文に反対するための攻撃材料を提供する結果となった。
「お父様は完全に無実でした。あなた方は彼が何を教え、いかに純潔を強調されるか知っているでしょう。それはそもそも最初からそうでした。さらに、お父様はその妻たちに家庭生活を放棄するよう要求したことはありませんでした。神が直接に干渉され、そのようにして誤解が生じたのです。」(注21)
(注1)D・S・C・キム(編)『希望の日の回想』第二部:1974~1975年、テリータウン、ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1975年、2ページ。統一教会「統一教会」統一教会によって配布されたパンフレット、ニューヨーク、1982年、5ページ。金永雲「神のために」統一教会によって配布されたパンフレット、ニューヨーク、1972年、23ページ。白鉄その他『文鮮明:人とその理想』ソウル、未来文化社、1981年、67ページ。アメリカ統一教会『文鮮明』ニューヨーク、統一教会、1976年、25ページ。
(注2)セバスチャン・A・マチャック『統一主義:新しい哲学と世界観』ニューヨーク、ラーンド・パブリケイションズ、1982年、5ページ。
(注3)アメリカ統一教会『文鮮明』25ページ。白その他『文鮮明』68ページ。
(注4)フレデリック・ソンターク『文鮮明と統一教会』ナシュビル、アビンドン、1977年、78ページ。阿部正寿(編)「教会指導者のマニュアル」世界基督教統一神霊協会、1980年(もともとは日本で1977年に編集された)187ページ。D・S・C・キム『希望の日』第二部、5ページ。白その他『文鮮明』68ページ。アメリカ統一教会『文鮮明』25ページ。
(注5)郭錠煥『概説 統一原理レベル4』ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1980年、2ページ。
(注6)同署、アメリカ統一教会『文鮮明』25ページ。
(注7)郭『概説 統一原理』2ページ。実際には文が1952年に書き終えた「原理原本」として知られているより初期のテキストがあった。
(注8)劉孝元『原理講論』ワシントンDC、世界基督教統一神霊協会、1973年。
(注9)例えば、金永雲『統一神学とキリスト教思想』ニューヨーク、ゴールデン・ゲイト、1975年。金永雲『統一神学』ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1980年。金栄輝『統一原理:スタディ・ガイド』ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1973年(再版、ロンドン、世界基督教統一神霊協会、1977年)。郭『概説 統一原理』。李相軒『統一思想スタディ・ガイド』ニューヨーク、統一思想研究院、1974年。
(注10)郭『概説 統一原理』2ページ。
(注11)D・S・C・キム『希望の日』第二部、5ページ。マチャック『統一主義』5ページ。
(注12)D・S・C・キム『希望の日』第二部、8ページ。
(注13)マチャック『統一主義』6ページ、白その他『文鮮明』68ページ。
(注14)金元弼『お父様の路程と私たちの信仰生活』ロンドン、世界基督教統一神霊協会、1982年、145-6ページ。
(注15)白その他『文鮮明』69ページ。
(注16)マチャック『統一主義』7ページ。
(注17)D・S・C・キム『希望の日』第二部、11ページ。
(注18)同書、12ページ。金元弼「お父様の証し」『原理的生活』に掲載、二部、ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1979年10月、11月、第一部、5ページ。
(注19)金元弼「お父様の証し」第一部、3ページ。
(注20)同書、4ページ。
(注21)同書、6ページ。