アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳40


第5章 選択か洗脳か?(3)

歴史や人類学が示す事実を少しでも心得ていれば、もちろん、人々が信奉してきた一見したところ異常と思われる信仰や実践が、極めて広範囲にわたって存在していることがわかるだろう。東洋の文化圏から来た人々の中には、ある儀式の中で飲む葡萄酒が、二千年前に処女から誕生したという人物の血に変化すると信じる人々がいることは全く信じがたいとみなす人がいる(注9)《訳注:この文章は、「化体説」または「聖変化」と呼ばれる聖餐に関するローマ・カトリック教会の正統教義を指している。カトリック教会の聖体の秘跡においては、司教・司祭がパンとぶどう酒を聖別するとき、パンとぶどう酒のすべての実体は外観(偶性)のみ残してキリストの実体に変化するとされている。これは第4ラテラン公会議(1215年)およびトリエント公会議(1545-1563年)で公式に認められたカトリックの教義である》。恐らくカトリック教会は、そのような人々が全て洗脳されていなければならないという「論理」には反駁しようとするだろう。繰り返して言えば、強制の問題を扱おうと望むなら、判断されなければならないのは、人が信じるようになる「プロセス」であって、その結果や信仰の「内容」なのではない(注10)。もう一つの、やや洗練されたバージョンの「信じられない内容が強制的なテクニックを証明する」式の議論は、次のような形を取る。すなわち、「ムーニーの信仰が信じられないというよりもむしろ、ジョナサン(ムーニーが持っているような背景を持つだれも)がそれを信じることができるとは、強制されたのでない限り、信じられないのだ」。しかし、この発言自体から独立した別の証拠がなければ、われわれは再び論点を先取りした主張に戻ることになる。すなわちこの議論は、ムーニーの持っている背景が、彼が運動に加わる決定を妨げたのではなく、逆に促したかもしれないという完全に論理的な可能性を排除しているのである。

「あまりにも信じられない」から強制であるという議論はさらに、宗教的信仰の信憑性を判断するための独立した客観的な基準が存在するという仮定の上に成り立っている。これが本当であることは滅多にない。(論点をはっきりさせるために明らかな例を選べば、)サイモンが、他の誰もが床に落ちて壊れたことを目撃したカップがいまも壊れずにテーブルの上にあると信じていると言うときの方が、ジョナサンが、メシアは地上におりマンハッタンで元気に暮らしていると信じていると言うときよりも、少なくともある意味で、はるかに強い懸念の原因となる。サイモンに自分は間違っているかもしれないということを示すためには、合意された方法があり、サイモンの五感が完全に機能している限り、彼が受け入れなければならないような方法がある。しかし、こうした合意された基準は、ジョナサンの場合には当てはまらない。大部分の宗教的な発言あるいは世界観は明らかに、経験的、あるいは科学的な発言がそうであるようには実証できないし、検証や反証に適さないものなのである。(注11)。このことが意味しているのは、ジョナサンの宗教的な信念あるいは世界観が「信じられない」という発言がわれわれに与えてくれる情報は、ジョナサン自身に関するものというよりは、その発言をした人の信仰に対する許容力に関するものであるということだ。

十分明らかなことであるが、この点は、新宗教運動の会員であることを「医学問題化する」いくつかの文献を読むときには極めて重要である。例えば、ジョン・クラーク博士は、「カルト・メンバーの照会の問題」という論文(彼は同僚に患者を入院させるよう説得する際に困難を経験した)の中で次のように書いている。「精神病についての私の実用的な定義は、中枢神経の不調であり、意識、気分、記憶、知覚、姿勢、あるいは『現実を検討する能力』(強調『』は付加)が変化したことにより、実質的な障害を引き起こしている状態であった」(注12)。私は約千人のムーニーと話をしたに違いないが、「経験的な」現実について他の人々と異なる見解を持っていると主張したり、あるいは持っているように見えた者は一人もいなかった。彼らは霊的あるいは宗教的な現実については、われわれの多くが疑問に思うことに言及するかもしれないが(注13)。

しかしながら、回心のもたらす変化は単に「統一原理」を受け入れることだけにとどまらない。われわれはしばしば、行動様式、態度、全般的な世界観に極めて大きな変化をもたらすという話を聞く。「ジョナサンはもはやかつてと同じ人物ではない。以前の彼なら決してあのようなことをしないだろう。彼は完全に認識不能な人格に変わってしまった。もはやジョナサンではなくなっている」ということが分かるかも知れない。ある人は他の人よりも劇的に変化するように見えるかも知れないが、人がムーニーになるときには、なにか非常に予想外で極端なことが起こり得るというのは否定できない。しかし人生において著しい変化を遂げる人はたくさんいる。そのような変化を記述することが、「どうしてその変化が起こったのか?」という疑問を誘発するのはもっともだが、しかし変化の「記述」は、それ自体では変化の「説明」にはならない。その変化が選択によって起こったのか、それとも強制によって起こったのかを決定しようとするなら、その「前」と「後」の情況以上のことについて知る必要がある。

「洗脳以外の説明は不可能である」という主張を正当化するために、変化の程度だけではなく、その変化が起こった速度が使われることがときどきある。突然で劇的な回心の話は歴史にあふれており、聖パウロの体験はその中でも最も広く知られている話の一つである(注14)。北米や欧州における福音派の伝道集会は、突然の回心を体験した何千人もの「新生した」クリスチャンを生み出している。その回心の際に、イエスを自分たちの生活に受け入れ、それ以後生活態度や生活方式を劇的に変化させたと彼らは主張している。回心が突然起きたことが、強制的な技術が使われたに違いないと示唆しているというのなら、「全ての」突然の回心は洗脳の結果だとみなさなければならないであろう。しかし、ムーニーが洗脳されていると主張する人々の中で、そのよう立場を受け入れる者は、たとえいたとしてもごくわずかであろう。(事実、彼ら自身も多くは新生したクリスチャンなのである)。さらに、たとえ彼らがそう主張したとしても、ムーニーの中のかなりの割合の者が、突然の回心をしたのではなく、運動に入会するまでに何ヶ月間あるいは何年間という時間をかけているという事実を考慮する必要があるだろう。

回心の突然さや回心の事実が、いずれも強制された回心と純粋な回心とを区別する上で必要な基準でも十分な基準でもないことを受け入れるなら、われわれは起こっている変化についての有益な情報を得てはいるものの、その変化の説明には必ずしも近づいてはいないという状況に自分自身がいることが分かるだろう。

(注9)イングランドとウェールズのローマ・カトリック教徒の研究によると、75%が「聖別のときにパンと葡萄酒が実際にキリストの体と血に変化する」と信じていることが分かった。M・P・ホーンズビ-・スミスとR・N・リー「ローマ・カトリック教徒の見解:1970年代のイングランドとウェールズにおけるローマ・カトリック教徒の研究」最終報告書、サリー大学、1979年、p.54、p.193

(注10)もちろん、これは信仰の内容が神学者やその他の人によって判断できないということを示唆しているのではなく、それは別の問題だということである。

(注11)このような区別の議論に関しては以下を参照せよ。カール・R・ポパーの「科学的な発見の論理」改訂版、ロンドン、ハチンソン、1968年、および「推測と反証:科学的な知識の成長」第2版、ロンドン、ルートレージ&キーガン・ポール、1965年

(注12)クラーク「カルト・メンバーの照会の問題」p.27。これに続くページで彼はある事例について述べているが、それによると、ある患者は彼女が以前に見た「幻覚」はある特定のカルトが崇拝する神の現れであると説得されていた。彼が家庭訪問をして彼女を診察したときの様子は以下のようなものである。

「彼女は惑わされてうつ状態にあり、極めて混乱しており、現実に対処できなかった。特徴として、入院させられたら正気のように行動するように彼女はカルトから言われていた。
彼女はうまくコントロールしていたので、入院時の研修医は彼女に精神病の症状を見いだすことができなかった。しかし私と、入院を達成させるための適切な訴訟事例によって説得された。2週間以内に、薬物投与による評価は受けなかったが、彼女は明らかな精神病エピソードを語り始め、自分自身をディプログラムした。さらなる治療を受けて、彼女は満足の行く程度まで回復した。

(注13)宗教的体験のさらなる議論については、第6章および第8章、およびT・ロビンズとディック・アンソニーの「逸脱した宗教の医療問題化:予備的な観察と批判」、社会学の作業論文のイェール・シリーズ、第1巻、1980年を参照せよ。

(注14)使徒行伝、第9章

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