神学論争と統一原理の世界シリーズ11


第3章 罪について

1.人類始祖アダムとエバは実在したのか?

人間の堕落に関するキリスト教の教理は、伝統的に創世記のアダムとエバの物語と結びつけられてきた。これは皆さんも一度は聞いたことのある話だと思う。人類の祖先であるアダムとエバが禁断の木の実を取って食べたことが最初の罪科となり、その罪が後の人類にまで「原罪」として受け継がれているという、あの話である。もし皆さんがこの話を単なる異民族の神話として受けとめるならば、その内容を軽く受け流すことができるだろう。なぜならギリシア神話の「パンドラの箱」をはじめとして、罪や災いの起源に関する神話は世界中にたくさんあるからだ。

禁断の木の実を取って食べるアダムとエバ

禁断の木の実を取って食べるアダムとエバ

楽園から追い出されるアダムとエバ

楽園から追い出されるアダムとエバ

 

 

 

 

 

 

 

しかし、もしあなたが熱心なクリスチャンにこの物語をとうとうと説明されて、「あなたもアダムとエバの子孫であり、原罪があるんだから救われなければならない。一緒に教会に行って洗礼を受けましょう」と勧められたとしたらどうだろうか? クリスチャンになるのも悪くないなと思っている人は、話の是非はともかくとして、洗礼を受けに行くかもしれない。しかしそれでもアダムとエバの話は遠い昔の夢物語のようで、いまいち実感がわかないだろう。ましてやクリスチャンになるのはゴメンだと思っている人は、「何でそんなバカげた神話を頭から信じているのか? アダムとエバの物語なんて作り話で、実際にいたわけないじゃん!」と反論してみたくなるに違いない。そう、もしアダムとエバの罪が「原罪」として私に受け継がれているというならば、彼らの歴史的な実在を証明してみせろという気持ちになるのが人情だ。

神話の中に秘められた真実

キリスト教の歴史において、この物語の信憑性は長い間疑われることはなかった。しかし近代科学の発達によって、まず創世記の記述と科学との矛盾が指摘されるようになり、続いて聖書の歴史的研究や神話学の研究によって、今日では創世記の第三章が歴史的事実の記述であるという論拠はほとんどなくなってしまった。聖書が一字一句違わず真理そのものであると主張する根本主義者たちは、聖書の記述が科学と矛盾しないこと、そしてそこに書かれていることがすべて歴史的事実であることを躍起になって証明しようとしているが、その論拠はあまりにも薄い。アダムとエバの物語はヘブライ人が創作した「神話」であるというのが、今日の学問的な定説である。

「アダム」という言葉は、実は聖書には五百回以上も出てくる。しかしその大部分は「人」「人間」または「人類」を意味する普通名詞として使われている。ただ創世記1~5章の部分だけは、人類の始祖をさす固有名詞として「アダム」という名前をもった人物がいたかのように書かれているので、ヘブル語以外の言語ではこの部分のアダムを「人間」とは訳さず、あたかも固有名詞のように「アダム」と表記しているのである。ところがもともとのヘブル語では、「アダム」も「人」も同じ言葉だ。したがって創世記の記述が、アダムという歴史的に実在した個人についての記述であるなどと考えてはいけない。聖書の著者は、「人間一般」の罪の起源について描写することを意図していたのである。同様にエバも「すべて生きた者の母」というその役割から「生命」を意味する「エバ(原語の発音は『ハゥワー』)」という名前をつけられたのであり、「人類最初の女性」という意味なのだ。そういう意味において、アダムとエバの物語は人類および罪の起源に関するヘブライ人の「神話」なのである。

しかし、「そうか、神話なのか、じゃあ、やっぱりウソなんだ」と思った人はまだまだ修行が足りない。通常「神話」といえば虚構的で空想的なもの、あるいは古代人の妄想であると思われがちだが、今日の神話学は神話に対してより積極的な意味を見いだしている。これは古代社会についての民族学的研究によって、神話が人間の文化の基礎的な役割を果たしていることが明らかにされたためであり、さらにフロイトやユングなどによって創始された精神分析学が、神話の中に人間の精神構造の重要な秘密が隠されていると主張したためである。特にユングは、夢と神話にはしばしば同じモチーフが現れることに注目して、これらの「無意識の産物」を「原型(アーキタイプ)」と呼んだ。ユングにおける「原型」や「集団的無意識」の概念は、我々の心の深層には個人の体験のみならず、原始からの種族的な経験が遺伝的に蓄積されており、現代人といえども神話の中に潜んでいる普遍的な真理に共鳴できる可能性を示している。

これらの神話研究が明らかにしたことは、神話で語られていることは歴史的事実ではないが、その中に普遍的な真理が表現されているということだ。すなわち神話は、人間の実存的な問いかけに対する古代の回答方法だったというのである。したがって、そこで語られていることが科学的に可能かどうかを問うのはナンセンスで、その中に込められた人間の生に関するメッセージを読みとらなければならないのである。このことは私たちが「アダムとエバの物語は本当か?」という問いかけを、歴史的・客観的な事実か? という意味でなく、もっと深い実存的な真理がその中に見いだせるか? という意味でとらえなければならないということを意味している。

アダムとエバのリアリティー

今日アダムとエバの物語は、我々に何か人生についての重要なメッセージを伝えてくれるような、リアリティーを持った物語としてとらえられることは少ない。最初に言ったように、「何となくクリスチャン」な人は原罪と言われてもピンと来ない。これはこの物語がすっかりお馴染みになっている西洋のキリスト教社会でも同じことで、アダムとエバの物語を自分の人生に深く関係あるものとして真剣にとらえている人は少ないだろう。ましてや日本人にとってこの物語は異文化圏の神話であり、なじみが薄いのだから、それをおいそれと信じろといっても、なかなか難しい相談だ。

ところが、統一教会においては、このアダムとエバの堕落の物語は強烈なリアリティーをもって受け入れられている。それはあたかも自分が実際に堕落の現場に居合わせたかのように、あるいは自分自身が堕落したアダムであり、エバであると感じられるほどに、身につまされる話として受け止められているのである。だからこそアダムとエバの歴史的実在や、罪の遺伝の医学的な証明などなくても、原罪は私の中にある、アダムとエバの罪は私の中に脈々と受け継がれている、と感じることができるのである。このことは統一教会のアダムとエバの物語の解釈が、それだけ人生の実存的な問いかけに対する回答として機能しているということであり、神話の中に潜んでいる普遍的な真理を見事に引き出した解釈であるという証拠ではあるまいか?

「統一原理」の原罪に対する理解については、詳しくは『原理講論』の「堕落論」に譲るが、一言でいえばそれは「愛の過ち」であったということだ。今日でも「禁断の木の実を取って食べる」といえば性関係を連想させるが、それだけ聖書の物語は堕落が性的なものであったことを暗示させる要素に満ちている。愛と性の問題は誰もが避けて通ることのできない重大な問題であると同時に、人間の罪や汚れと深く結びついている。だからこそ愛と性の過ちが人間の罪悪の根本原因であったという主張は、我々の魂を揺さぶるものをもっている。これを「統一原理」はハッキリと述べた。

現代は愛の危機の時代である。だから人々は愛の問題に関して実存的な問いかけをもっており、回答を待ち望んでいた。そこに「統一原理」はアダムとエバの物語をモチーフとして、見事な回答を提示してみせたのである。

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