神学論争と統一原理の世界シリーズ10


第2章 人間について

3.霊的現象は信じられるか?

現代の日本人の宗教性を表す言葉の一つに「教団嫌いの神秘好き」というのがある。これは奇跡や超能力、死後の世界などの神秘的なものには非常に高い興味と関心を示すのに対し、宗教団体に入って教義・信条に拘束されたり、組織に束縛されることに対しては極端な嫌悪感を示す傾向にあるということだ。

これに対して伝統的な宗教の特徴はまさにこの逆を示しており、「神秘嫌いの教団好き」ということができよう。これは私が造った言葉だが、要するに自分の教団の確立された教義を守り組織的な統制を維持するために、霊的な現象をオカルト的で次元の低いものとして否定するということである。新宗教や新新宗教はこの間隙をぬって信徒を獲得しているわけだが、それはさておいて、ここでは伝統宗教、特にキリスト教において霊的現象が否定的にとらえられれるようになった背景と、そのことが持つ意味合いについて考えてみたい。

 

宗教団体が霊的現象を嫌う理由

実は予言や異言を語ったり神の啓示を受けたと主張することに対して、既存の宗教勢力が否定的な立場を取ったという歴史は、紀元前のユダヤ教にまでさかのぼる。公式的なユダヤ教の見解によれば、エズラが最後の預言者ということになっており、彼が生きていたBC400年をもって神の啓示はストップしたことになっている。それ以後に書かれた文献は、すべて啓示の「解釈」としての位置づけしかされていない。なぜそのような「預言の停止」という教義が生じたのか? それは次から次へと現れる預言者たちを収拾できなくなったからである。虚偽や妄想と区別するのが難しい内容を語る者が多く現れ、それが既存の啓示と矛盾するような新しい内容を含んでいれば、既成の宗教秩序は脅威にさらされるのである。

このことはキリスト教においても同様であった。キリスト教ではイエス・キリストにおいて神の啓示があったと理解しているので、ユダヤ教の主張するBC400年での啓示のストップという教義は受け入れられない。そこでエズラ以降イエス・キリストまでの400年間は「沈黙の400年」といって、神が黙っていた期間であると再解釈された。ところがキリスト教においても、神はずーっとしゃべり続けているわけではない。使徒たちが活躍したAD100年くらいで、やはり啓示はストップしてしまう。これもまた同様に虚偽とも妄想ともつかない予言をする異端がたくさん出現したことが原因だ。

キリスト教のごく初期の時代に、世の終わりとイエスの再臨を予言したモンタノス主義や、あの世についての空想的な教説を展開したグノーシス主義などが出現したことにより、教会は正典(カノン)を編纂して、啓示の内容を固定化する必要に迫られた。このような異端を引き合いに出さずとも、コリント人への手紙を読めば、使徒パウロが霊的現象の取扱いに手を焼いていたことは一目瞭然だ。

 

神の啓示か悪霊の仕業か

さて、正典が決定され教義が確立されれば、霊的現象によって神学が挑戦を受けることはなくなる。しかし、これが「教団のコントロール」という一種の「都合」によってもたらされたものであることは問題視していい。今日プロテスタント教会の保守派や根本主義者たちは、心霊現象を探求することはオカルトと呼ばれる禁じられた領域に道楽半分に手を出すことであるとして、これを極端に蔑視している。しかし実際のところ、旧約聖書に記述されているイザヤやエゼキエルの見た幻、ヨセフやダニエルの見た予言的な夢、そして新約聖書に見られるイエスの悪霊退散や聖霊降臨などの現象と、ほかの心霊現象との客観的な差異を発見することは難しいのである。それが神からのものであるかどうかを判断するのは、あくまで人間の主観なのだ。

イグナチウス・デ・ロヨラ

イグナチウス・デ・ロヨラ

そこで教会は曖昧な人間の主観に啓示の基準を置くことをやめて、客観的な文書の形にし、さらにそれを解釈する権威をつかさどる司牧体制を固めることによって、その他の霊的現象や啓示を否定した。これによって教会が官僚化され、霊性が枯渇し始めたことは事実だが、それで霊性がまったく失われてしまったというわけでもなかった。キリスト教が宗教である以上、現実として日々の信仰生活の中で起こるさまざまな霊的現象を取り扱う必要があったのであり、それは善霊と悪霊の業を見分けるという使徒パウロの伝統に立っていた。イエズス会の創始者である聖イグナチウス・デ・ロヨラ(1491~1556年)の「霊操」も、そのような霊的感性を高めるための実践的な指導書である。

 

エクソシスト

エクソシスト

映画「エクソシスト」

さらにカトリック教会には、このような長年の経験に基づいて構築された「悪魔学(demonology)」がある。カトリック教会には、人間が悪魔や悪霊にとりつかれるという現象を事実として受けとめ、その人から悪霊を追い出すための正式な儀式である「悪魔払いの儀式」が存在する。有名な映画「エクソシスト」を見たことのある人は、それがどんなものであるか分かるだろう。「エクソシスト」というのは、悪魔払いをする専門職である「祓魔師(ふつまし)」のことである。しかし、この祓魔師の職位も1972年にパウルス6世によって廃止され、カトリック教会でも特に第二バチカン公会議以降は悪魔払いは下火になってきた。

これは一つには悪魔払いが「魔女狩り」などの悲劇を生んだこと、そしてより本質的には近代合理主義の台頭によって悪魔や悪霊の存在が迷信として排斥されるようになったことが原因である。初めはこれはキリスト教の外側から、科学や実証主義の名のもとになされた攻撃であったが、やがて神学の世界にも「非神話化」の波が押し寄せることにより、聖書における悪魔や悪霊などの記述は比喩または象徴であり、非実在であると考えられるようになった。さらに実践的なフィールドでは、牧会活動に心理学的なカウンセリングの技術が導入されることによって、悪霊の概念はキリスト教徒の日常生活の中からも追い出されていったのである。このように、悪魔や悪霊の存在を信じることは進歩的・現代的でないという考え方が定着していった。

霊的現象に責任をもつべき宗教

しかしながら、今日ほど唯物論的な世界観が一般化している時代においても、悪魔や悪霊の概念は人々の間に生き続けている。20世紀に起きた二度の世界大戦や、アウシュビッツに代表されるような惨事は、人間の持つ悪魔性を白日のもとにさらした。普通、人間の経験に合致しない概念は死ぬはずであるが、これらの概念は多くの攻撃を受けたにも関わらず今日もなお力強く生きており、人々の間にオカルトブームや霊界ブームを起こしたりしている。すなわち霊的現象は今でも、人々にとってリアリティーのあるものとしてとらえられているのである。

したがって現在の状況を要約すれば、伝統宗教は頭でっかちになって霊的感性を失ってしまったのに対し、世俗的な世界では理念なきままにいたずらに霊的現象に興味が示されている、ということになる。これは非常に危険な状況だ。

そこで「統一原理」は、宗教こそ霊的問題を率先して扱うべきであると主張するのである。霊的現象には善悪・真偽が入り交じっている。それらを頭ごなしに否定したり、すべてをありがたがったりするのではなく、研ぎ澄まされた霊的感性をもってそれらを判別するのが、本来の宗教の使命のはずである。「統一原理」においては「創造原理」「堕落論」「終末論」「復活論」など、教義の根幹をなす部分で霊界の問題が取り扱われているし、実践的な活動においても霊的問題に正面から取り組んでいる。それはこの問題から目をそらすことは、宗教であることの放棄に外ならないからである。

<以下の中は原著にはなく、2014年の時点で解説のために加筆したものである>

(注1)『エクソシスト』(The Exorcist)は、1973年製作のアメリカ映画。少女に憑依した悪魔と神父の壮絶な戦いを描いた作品で、ショッキングな描写が話題を呼び、世界中で大ヒットした。

カテゴリー: 神学論争と統一原理の世界 パーマリンク