アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳39


第5章 選択か洗脳か?(2)

私が調査の過程において気が付くと真剣に取り組んでいた最も根本的な疑問の一つは、果たして(ムーニーであろうと、反カルト主義者であろうと、偏見なくこの問題に取り組む人は誰もが同意するであろう)独立した、経験的なデータがあるかどうかだった。そうしたデータは、ムーニーは洗脳テクニックの犠牲者だと主張する一群の人々と、ムーニーは自分の自由意思で決断をしたのだと主張するもう一群の人々(ムーニーたち自身)の間の行き詰まりを克服するのに役立つだろう。言い換えれば、自分自身が責任ある能動的主体であるような回心と、自分のコントロールを超えた力やテクニックの受動的な犠牲者になるような回心とを区別する客観的な手段はあるのか、ということである。

ムーニーを誕生させる上で役割を果たすさまざまな影響を分類する作業は、かなりのところまで可能であると私は信じている。だが、そうするには通常採用されているものとは異なった視点からアプローチすることも必要である。それには個人からグループへ、孤立した心理から社会的状況へと、主な焦点を移すことが含まれている。とりわけ、それには異なる個人の間、および個人の集まりの間の体系的な比較を用いることが含まれている。言い換えれば、心理学あるいは医学的なアプローチよりも、むしろ社会学的なアプローチを伴っているのである。そして私の知る限り、私がまさに進めようとしている方法でこの問題を扱おうとした人は誰もいなかったので(注6)、私はこの章でこの問題を解く公式を再編成する論理を説明し、以下の章で提示されるデータ分析の基礎となる前提のいくつかを詳しく説明しようと思う(注7)。まず、この調査に必要な構成要素であると私がみなすものを紹介することから始めることにするが、議論はかなり複雑であり、多くのデータや概念を含んでいるし、他の評論家が到達した結論のいくつかを私が拒否するので、同時に私が同意しない方法や議論のいくつかを論破することによって、問題を明確化しようと思う。その次により建設的な提案に進むことにする。

誰の話か?

人の行動を理解するための生のデータには、人を観察し、話を聞き、あるいはその人の書いたものを読んだりして収集した情報が含まれていなければならない。遠くから肘掛けいすに腰掛けてくつろぎながら、問題となる人に近づいて観察することもないままに語る発言は、実質的に問題の解決を促進することはない。しかし人々を観察し、話しかけるだけでは十分ではない。次の何節かの主要な議論は、個々人のケースを観察したり挙げたりすることは必要ではあるものの、それは選択と洗脳の区別する上で合意に近づくことを望めるほど十分な情報を提供するものではない、ということである。

ムーニーの説明

どうして統一教会の会員になったのかをムーニー本人に尋ねると、だれも洗脳されたとは言わない、というかなり明白な事実を私はすでに指摘してきた。むしろわれわれはムーニーたちから、自分たちは解放されたとか、自由を発見したとか、いまの自分はこれまでよりもはるかによく自分の運命をコントロールできていると感じている、といった話を聞かされるだろう(注8)。われわれは彼らから、神に導かれたとか、深い霊的な体験をしたとか、メンバーはとても友好的だったとか、神学は非常に論理的であるとか、その他多くの理由を聞かされるであろう。しかしその説明がどうあれ、ムーニーは自分はそこにいたいからいるのであり、少なくとも自分がしなければならないことを決めるのは自分自身だ、と主張するであろう。

ムーニーは完全に運動の支配下にあるので、指導者たちが望むことだけを言う可能性がある(それは洗脳されたか、嘘をつくことに同意したからである)と、早まった判断をすることはできない。それとは別にムーニーの説明の難しいところは、時の経過とともに変化する傾向がある(特に運動を離れた場合には)ということだ。それは状況についての記憶や理解が変化したからである。これらの難しい点については、今後さまざまなところで戻ってくるが、統一教会の会員になるプロセスをより深く理解しようと望むなら、ムーニー自身の話を超えたところを見る必要があるということを強調するために、ここで手短に述べることにする。

友人や親族の説明

ムーニーになる以前に自分たちが知っていた人物は洗脳された、と断言する覚悟のできている友人や親類は数多くいる。(感情が関わっており、大部分の場合、予想外であることや、回心の結果生じたムーニーたちの献身の強さを考えれば)理解できることだが、これらの主張の背後にある論法はしばしば混乱しており、発言者は次から次へと不規則に説明を変えることもよくある。私的な議論だけではなくて、本、記事、メディアでのインタビューなどに登場する議論のいくつかを手短に説明し、これを退ける必要がある。それらの議論はしばしば「証拠」として人々に受け入れられているが、彼らが立ち止まって考えてみるならば、その弱点に気付くであろう。

例えば、数多くの議論は、論点を先取りしているに過ぎない。最も単純なかたちとしては、次のような発言にまとめることができる。「ジョナサンはムーニーになったのだから、彼は洗脳されたに違いない」と。これはジョナサンが洗脳されたことを論証してはおらず、単にそう主張しているだけである。これと同様に不十分なのは、「ジョナサンは洗脳されたに違いない。なぜなら正気の人なら誰も選択しないことをムーニーたちは信じ、実行するのだから」と宣言することである。ジョナサンがいま奇妙なことを信じ実行しているという事実は、われわれが説明したくなるようなある種の問題が存在することを提起するかもしれないが、人々が何かを信じるようになる「プロセスの特徴」と「信仰そのものの信ぴょう性」との間には、論理的必然性のあるつながりはない。

(注6)L・R・ランボ「宗教的回心の最新の研究」『宗教研究レビュー』第8巻、1982年4月は、回心に対するさまざまなアプローチに関する、優れた注釈つきの参考文献一覧を提供している。
(注7)この章で提示された議論の一部は、アイリーン・バーカーによる以下の論文でさらに詳しく展開されている:「事実と価値観と社会科学」『科学と絶対価値』第三回科学の統一に関する国際会議(ニューヨーク、ICF、1975年)の議事録;「猿と天使:人間研究における還元主義と選択と出現」『インクアイリー』第19巻、第4号、1976年;「方法論的統合失調症患者の告白:文鮮明師の統一教会研究において遭遇した問題」、『礼拝と宗教建築研究所・研究公報』バーミンガム大学、1978年;「プロのよそ者:文鮮明師の統一教会研究において遭遇したいくつかの方法論的問題」、D207のための公開大学講座メディア記録、『社会学入門』ミルトン・ケイネス、公開大学、1980年、ドイツ語版「プロのよそ者:逸脱した宗教グループの研究における不可解の説明」、グンター・ケレン(編)『新宗教の発生:統一教会の例』ミュンヘン、コーセル出版、1981年に収録;「英国における新宗教運動:状況と会員」『社会の羅針盤』30~31番、1983年;「悪魔とスープをすする:科学者にはどのくらい長いスプーンが必要か?」、『社会学分析』第44巻3号、1983年。
(注8)アイリーン・バーカー「完全な自由は誰のため?:文鮮明師の英国統一教会に関する霊的な幸福の概念」、デビッド・O・モバーグ(編)『霊的な幸福』、ワシントンDC、ユニバーシティ・プレス・オブ・アメリカ、1979年に掲載。

 

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