アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳06


第一章 接近と情報収集(2)

研究の目的(と制約)

私の研究の主要な目的は、ムーニーについて私が見出し得ることを見出すことであった――文(Moon)についてではなく、ムーニー(Moonie)についてである。社会学者として私は、一人の指導者がどのように「動く」かとか、彼の動機が何であるかということ以上に、彼の指導力がどのように「機能する」のか――彼の信奉者たちは何を信じる覚悟ができていて、(象徴的なものに過ぎないかもしれない)注目の的である彼のために何をするのか――により関心があった。

言い換えれば、文鮮明がメシヤであるかどうか、あるいは彼自身がそう信じているかどうかを見いだすことは、私の研究の中心的探究ではなかった。私は何度か彼に簡単に紹介されたり、彼が講演するのを聞いたり、そのスピーチを多く読んだことがあるが、彼の心の中で何が起こっているのかを知る特別な方法は持ち合わせていない。私の研究において「銃や法律の助けなしに、一人の人物がいかにして世界中でそれほど多くの人々の人生に影響を与えることができるのか?」という疑問は、次のように言い換えられた。「どのような状況下で、教養ある西洋の若者が韓国出身の人物に従い、一連の信条を受け入れ、ライフスタイルを取り入れ、両親や友人や社会全体から見れば奇妙で、間違っていて、不自然な行動をするのか――そして、そのような現象はいかなる結果をもたらすのか」。

ジム・ジョーンズの恐ろしさは、彼が死んだということではなく、900人以上の信奉者がガイアナで彼と共に死ぬ覚悟ができていたということだった。ヒットラーの強みは彼の野望にあったのではなく、数百万人が彼を信じて服従したという事実にあったのである。それは、私が統一教会をもう一つの「人民寺院」とみなしているということではなく、また違った理由で、ムーニーがもう一つの「ヒットラー青年運動」を構成すると考えているということでもない(注5)。しかし、もしわれわれが、主流の伝統からはずれた運動が実際にいかに「機能するか」についての理解を深めたいと思うのであれば、一見して魅力がなく、不快でさえある信条や行動を、いかにすれば普通の男女に魅力的に見せることができるのかについて、もっとよく理解する必要がある、と私は確信している。指導者はカリスマ性をもっているに違いないと言うことや、あるいは洗脳やマインド・コントロールというあらゆるものを含む主張を参照することによって、彼の信奉者を「説明する」ことは、単に問題を曖昧に言い換えているにすぎないのである。

具体的に言うと、私が研究の過程で問うた疑問をいくつか挙げれば、それは次のようなものだった。なぜ、どのような状況下で、どのような人々がムーニーになるのか? なぜ、どのような状況下で、どのような人々が運動を去るのか? 統一教会での生活はどのようなものなのか? その組織はどのようなコミュニケーション・システムや権力構造をもっているのか? どの範囲まで、そしてなぜ、その運動は時と場所によって変化するのか? 教会とそのメンバーは、一般社会とどの程度の関わりを持つのか? そして、どのような方法をもってわれわれは、統一教会の現象と、それに対する公衆の反応を最もよく理解し、説明することができるのか?  私の専門知識が不足していることを不本意ながらも告白しなければならない一つの分野は、統一教会の東洋的ルーツについてである。私は日本と韓国のどちらも訪れたことがあり、東洋の宗教についていくぶんかの知識は持っているが、これは私の「領域」ではなく、東洋の言語を全く話さないので、東洋のムーニーに固有のものの見方を、深く微妙なところまでは理解できなかった。しかしながら、私が関心をもった西洋のムーニーの大部分は、東洋についての知識を私以上にもっていなかった(普通はほとんど無知だった)ので、それが西洋人に指導されてはいないけれども、主に西洋人で構成されている運動である限りにおいては、私の無知は、西洋における運動の機能(起源に対立する概念としての)を理解するのを必ずしも妨げはしないのである。

 

視点とアプローチ

本書の序文で示唆したように、人々が統一教会とそのメンバーをみる見方は数多く存在する(注6)。「水平」と呼べるであろう次元においては、一方で、絶望的な貧困と苦難の生活から抜け出すことのできない洗脳されたロボットを搾取している狡猾な百万長者というイメージから、他方では、喜びに満ちた信者たちが地上天国を建設することに自らの潜在的能力を発揮するほど、彼らに愛と自由を与えた神の人というイメージまでを包括する、実に幅広い観点が存在する。私が問わざるを得なかった疑問の一つは、これら二つのイメージをどのように調和させるか、――あるいは少なくとも、いかにしてそのような多様な見解を、恐らく同一である現実に対して抱くことが可能なのかを理解することだった。もう一つの疑問は、「垂直的」と呼べるであろう視点について扱っている。私はもし可能であるとすれば、三つの異なるレベルを分析し、統合したかった。第一に個人的レベルがあり、それは個々のムーニーに関することだった。第二に人間関係のレベルがあり、それはムーニー間の相互作用と、彼らと運動の外の人々との関係に関するものだった。そして第三に非個人的レベルがあり、それは社会学者たちが関心をもつ、より抽象的な現象――構造や機能、あるいは意図せざる結果、そして、それが構成されている個人には当てはまらない属性をもっているシステムのようなもの――に関するものだった。この非個人的レベルで、私はまた、その運動全体を現代社会の中に位置づけ、それを現在においても歴史を通しても、他の類似の運動と比較したいと思った(注7)。

そのような冒険に必要であろうすべての情報を得るためには、一つの手段ではとうてい不十分だろうということは明白だった。水平的な矛盾に取り組むために、私は内部の人々と同様に外部の人々に話す必要があった。垂直的レベルを観察するために、私は個々のムーニーたち、彼らの背景、希望、価値観、そして運動の内側と外側の両方における一般的な人生観についての情報が必要だった。また、彼らが日常的にどのようにして他者に影響されるのか、そして彼ら自身がどのように影響を与えるのかを見るために、彼らが他の人々と相互作用をしているときに、「作用している」彼らを観察する必要があった。最後に、その運動が全体としてどのように組織され、それがどのようにメンバーの日々の行動や相互作用に、影響を与えているのかを見る必要があった。

私は三つの主要なアプローチが必要だということを決定した。突っ込んだインタビュー、参与観察、そしてアンケートである。

 

(注5)J・T・リチャードソン「人民寺院とジョーンズタウン:修正的比較と批判」、『宗教の科学的研究のためのジャーナル』第19巻3号、1980年を、ジョーンズタウンとその他の新宗教との一連の優れた区別のために参照。

(注6)以下の節で提起されている方法論的なポイントのために、アイリーン・バーカー「方法論的統合失調症患者の告白:文鮮明師の統一教会研究において遭遇した問題」、『礼拝と宗教建築研究所・研究公報』バーミンガム大学、1978年、「プロのよそ者:文鮮明師の統一教会研究において遭遇したいくつかの方法論的問題」、D207のための公開大学講座メディア記録、『社会学入門』ミルトン・ケイネス、公開大学、1980年、ドイツ語版「プロのよそ者:逸脱した宗教グループの研究における不可解の説明」、グンター・ケレン(編)『新宗教の発生:統一教会の例』ミュンヘン、コーセル出版、1981年に収録、を参照。 (注7)現状の異なる側面の詳細については、アイリーン・バーカー「サルと天使:人間研究における還元主義と選択と発生」、『インクアイアリー』第19巻4号、1976年。「神学としての科学:西洋科学の神学的機能」、A・R・ピーコック(編)『二十世紀における科学と神学』ロンドン、オリエル・プレスに収録、そしてインディアナ州、ノートルダム大学「誰がムーニーになるのか? 英国において統一教会に入会する人々の比較研究」、ブライアン・R・ウイルソン(編)『新宗教運動の社会的影響』ニューヨーク、ロース&シャロン・プレス、1981年に収録、「現代英国の宗教:社会学者が統計値を見る」、P・ブライアリー(編)『英国クリスチャン・ハンドブック』ロンドン福音同盟、聖書協会とマルク、1982年に収録、「英国における新宗教運動:内容と会員」ソーシャル・コンパス、30-1, 1983年を参照。

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