神学論争と統一原理の世界シリーズ09


第2章 人間について

2.人間はなぜ男性と女性に造られたのか?

旧約聖書の創世記1章27節や5章1節には、神が人間を自分のかたちに創造したという記述があり、これがキリスト教における「神のかたち(Imago Dei)」という教義の根拠となっている。これはすなわち、人間は神に似せて造られたという意味であるが、それでは一体いかなる点において人間は神に似ているのだろうか?

この問いかけは、人間の尊厳性や価値の根本とは何か? という問題と深く関わっているために、古代から多くの神学者たちが「神のかたち」の意味について議論してきた。キリスト教初期の教父たちは、一般的に人間の「合理性」を神のかたちのしるしであると考えた。これは理性こそが人間の最も優れた属性であり、その尊厳性の根本であるととらえたギリシア哲学の影響を受けた考え方である。またそれは全宇宙をつかさどる至高の合理的存在としてのギリシア的な神観とも一致していた。すなわち神も人間もともに理性的な存在であるという点において、似ているということである。

ペア・システムとして作られた人間

しかし、聖書がこの「神のかたち」ということについて述べている箇所を素直に読んでみると、このような「合理的存在」としての人間像とはずいぶん違った解答が得られることが分かる。なぜなら創世記1章27節には「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された」と書いてあるからだ。これは神のかたちとは、人間が男性と女性であるということに外ならないことを意味している。人間は「男と女である」ということにおいて、神に似ているというのだ。

このことはキリスト教の伝統的な神観から考えると、おかしなことのように思える。もし伝統的な神観が教えるように、神が唯一無二、全知全能、完全無欠の絶対者であるならば、なぜそれに似せて造られた人間が「男と女」という形態で創造されたのだろうか? まず唯一者だというならば、それに似せて造れば一種類の人間になってしかるべきであり、男性も女性もない「中性」としての人間が創造されたはずだ。さらに全知全能で完全無欠の絶対者に似せて造ったならば、その「中性人間」はそれ自体で完全に充足しており、他者の助けを全く必要としない存在として造られたはずである。しかし実際には、人間は男性と女性の二種類に分けて創造され、男性は女性なしには生きていけなし、女性は男性なしには生きていけないようになっている。両者はそれぞれ単独では不完全で、互いに協力し合わなければ存在し得ないように造られているのである。

このことが我々に教えてくれることは何か? 確かに伝統的な神観が教える内容も神の属性には違いない。しかし、神に似せて造られたという人間をよく観察してみれば、それらよりももっと大切で、本質的な属性があるのではないかと思えてくる。そのより本質的な属性とは「他者との関係性」において生きるということである。関係性ということを重要視しなければ、画一的で自己充足的な「中性人間」を造ればそれで良かった。しかし、神はアダムに対して「人がひとりでいるのは良くない」と言われたのである。人間同士が豊かな関係を結んで生きるようにするためには、互いの性質が大きく異なるがゆえに互いを求め合い、互いに必要とし合うような「ペア・システム」を設計する必要がある。まさにこのような理由によって創造されたのが、相互補完的な存在としての「男」と「女」であったのだ。

「神のかたち」としての男女

神は男性と女性が互いに愛し合い、助け合って生きて行くように設計され、そのような人間をもって「神のかたち」と呼んだ。このように「男女が愛し合っている姿」が神の似姿であるということは、何を意味するのだろうか? それは神の最も本質的な属性は「愛」であり、言い替えれば「他者との関係」において存在するということなのだ。このことを統一原理では「二性性相」と呼んでいる。二性性相の思想の根本にあるものは、いかなる存在といえども単独では存在し得ず、必ず他者との相対的関係を結んで存在するのであるという「関係性の哲学」である。これが神から始まって被造世界すべての存在に当てはまる、と「統一原理」は主張するのである。

もし神がただ単に「唯一の絶対者」であったならば、神は「孤独の神」であり、被造物との「相対的」関係を結ぶことなどありえない。またさらに世界の創造は絶対者である自分以外の存在を出現せしめることであるから、ある意味で自己を相対化させる行為である。もし神が絶対者であることのみにこだわっていたなら、そもそも世界を創造するなどとということもあり得なかった。いわんや我々が今こうしてやっているように、神を議論の「対象」とし、「神はいかなる存在か?」と類推するなどということは、とんでもない話だ。もし神がゴリゴリの絶対主義者であったなら、神についてのくだらない推論を展開する私のような存在は、一瞬の内に消滅しているだろう。しかし現に、私はこうして存在している。したがって、神は自己を相対化してまでも共に生きるパートナーを求める「心情的」な存在なのである。

このような神に似せて造られた人間もまた、共に生きるパートナーを求める心情的な存在であり、それは具体的には男性と女性という関係の中で営まれる。このような関係性が被造物全体を貫く普遍的な性質である以上、その原因者である神御自身の中にも同様に相対的な関係性がなければならない。すなわち神は自分自身を対象化することによって、自体内に「主体」と「対象」を生じさせ、それらが互いに相対的な関係を結ぶようになる。これが神自体内のダイナミズムであり、統一原理ではこれを「神の二性性相」というのである。

カール・バルト

カール・バルト

実は、統一原理のいう「二性性相」に非常に近いことを言った神学者がいた。それはかの有名なドイツの神学者カール・バルトである。バルトは人間の本性を他者との関係において存在する「連帯的人間性」であるとし、そのもっとも典型的な関係を「男と女」の関係であるとした。すなわち神が人をその似姿に造ったというのは、これを「男と女とに」造ったことにほかならないと述べているのである。バルトは人間がこのような存在としてあるのは、やはり神ご自身が孤独者ではなく「関係における存在」であることに、その原因があるととらえた。

 

それではバルトにとって、神が関係における存在であるとは一体どういうことか? それは神が孤独の神ではなく、「三位一体の神」であるということだ。すなわち神自体内に「父」と「子」と「聖霊」という関係性が存在するために、これが原因となって人間も男性と女性という関係を結んで生きるように造られたというのである。三位一体論なんて、キリスト教を混乱させた非合理的な教義で、過去の遺物ではないのかなどと言わないでほしい。現代神学における三位一体論は、形而上学的な遊びではなく、「関係性において存在する神」という重要な概念の根拠となっているのだ。事実、父と子と聖霊の関係を「心情」「主体」「対象」に入れ換えてみれば、その構造は統一原理に酷似していることがわかる。【図5】

【図5】

【図5】

神が人間を男性と女性に創造した理由は、その関係性において神の愛を表現するためであった。したがって結婚は単に人間の幸福のためだけのものではなく、神の愛が地上に顕現する最高の「場」であり、人間が神の愛を身をもって体験する道である、と「統一原理」は説くのである。

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