アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳37


第4章  ムーニーと出会う(7)

21日修練会は依然として『原理講論』に集中しているが、当然予想されることながら、短期間のコースよりもはるかに詳しく教えられる。また統一教会の目指す「勝共」(注22)や、おそらくより哲学的な指向性の強い「統一思想」(注23)などについての初歩的な講義も行われる。ゲストが積極的に関わることは、さまざまな形でかなり多くなっていく。その一面として、参加者たちは共同体の日々の運営にさらに貢献するようになり、施設内の雑用なども手伝ったりする。また別の面では、講義を聴いたり論議したりするだけではなく、「原理」の一部を講義するように求められる。それはただ聴いていたときにははっきり分かったと思っていた考えの、細部を本当に把握していたかを知るうえでは確実な方法である。彼らは庭に出て植物などを見つけ、それを題材にして神の創造について(10分間ほど)語るというような課題を通して、「原理」の観点を適用するよう求められる。参加者はまた、ファンドレイジングや街頭での伝道に2、3日参加することによって、より実践的な「原理」の適用について学ぶことが期待される(注24)。

毎日、散歩、組織的なゲーム、カントリー・ダンスなどの身体的な活動にいくらかの時間があてられる。21日間の修練会では、何日かの夜は素朴なエンターテインメントが行われ、ゲストやメンバーなどがそれぞれの才能に応じて特技を披露する。誰もがその歌に参加し、やはりここでも、どんなことをしても大きな歓迎の拍手で受け入れられる。ときにはパーティ用のゲームが行われ、また『原理講論』に基づいたクイズが出されたりする。また、毎日短い礼拝がもたれ、ゲストは食事の前の感謝の祈りをしたり、講義の前の祈りをするよう求められたりもする。運動の歴史や創始者についてもさらに詳しく学ぶことになる。古いメンバーたちが自分の体験を話したり、韓国の初期の弟子たちが「お父様の初期の戦い」(注25)について語ったりする(これは通訳が必要である)。夫と妻が「祝福家庭」(注26)としての自分たちの体験を語ることもある。参加者がやりたいことを自由にできる時間も(毎日1時間から2時間ほど)ある。彼らは手紙を書いたり、散歩に出たり、参加者同志でおしゃべりをしたりする。1970年代後半のイギリスでの21日修練会の公式予定表を表3に示した。

表3

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21日修練会卒業式のエンターテインメント(4章117ページ)

21日修練会卒業式のエンターテインメント(4章117ページ)

 

 

 

 

 

 

 

 

ある意味では長期間の修練会の方が短い日数のものよりも、雰囲気が緊迫していない。ペースはゆっくりしている。非常に短い時間に全てのものを詰め込む必要がないからだろう。しかしまた、そこには統一教会の教えにはるかにしっかり染まっている感覚があり、外部の世界がより遠のいたような感じがする。会員にならない参加者であっても、全般的な統一教会の「感じ方」を十分に理解するようになり、質問を浴びせ続けることによって不快感を与えたりしなくなる。考え方の不一致や議論は多くあっても、それらは運動の基本的な考え方や原理をある程度知りかつ理解した上でなされる傾向がある。21日修練会が終わるまでには、ムーニーたちはゲストに入教を決意させることができないかもしれないが、彼らはゲストに対して、彼が運動に出会う以前に想定していた未来とは根本的に異なる傾向を持つ一つの生き方と考え方をはっきりと提示することになる。この他にも、さらに上級の修練会があり、それは40日、100日、120日、あるいはもっと長く続くこともある。しかし、これらは会員のためだけに開催されるものであるため、ここではわれわれの関心事ではない(注27)。

すでに強調したとおり、修練会は時と場所によって異なっているのだが(注28)、ムーニーであろうと、元ムーニーや入教しなかったゲストであろうと、これまで述べたことに異論を唱えようとする人は多くないだろう。また、前章で示された統一教会の信条の記述に強く反論する人もいないだろう。その範囲において、これらは何が起こっているか、そしてゲストに何が提供されているかに関する簡潔な、「外面的な」説明である。しかしこれらの説明は、それ自体では、ゲストに何が「起こっている」のかを我々が理解するのを助けることには至らない。次のステップは、修練会のこうした比較的客観的な説明を、より主観的なアプローチによって補足することである。そのために、新会員になりそうな人々に、統一教会がどのように認識されているかを尋ねることにするが、これは第6章で行うことにする。しかし、私がここまで関心を寄せてきたような記述を越えようとするならば、まずは私自身の直面している状況を調べてみることが有益であろう。

社会科学者が自分の研究対象としている人々を、自己のコントロールを超えた力を受動的に受けるだけの存在であると想定すべきなのか、それとも自由な選択をすることができる能動的な主体であると想定すべきなのかについては、長い間議論がなされてきた。我々の行動は何らかの原因によって引き起こされたものなのだろうか、それとも我々の行動には我々自身の中に理由があるのだろうか? この種の区別は、回心についての社会学や人類学の文献において思案されている。この研究で私は、ある特定の立場に立ったものの見方から始めたくはなかった。私は、ムーニーになるということは受動的に相手に合わせることなのか、それとも積極的な選択なのかを問いたかった。しかし、これは私にちょっとした問題を提示することになった。私が見たものが選択であるかそれとも洗脳であるかを、どうやって見分けることができるだろうか? これはムーニーやその反対者が思っているほど明らかなことであるとは、私には思えなかった。我々がこうした概念を用いるとき、我々が言及しているものが一体なんであるのかを、私は整理しなければならなかった。私は何が必要なデータであるかを決めなければならなかった。そして私は数々の情報源から何が推論されるのか、そして同じくらいに重要なことだが、何が推論できないのかを決めなければならなかった。次の章では、私はこれらの問題を考慮して、データの収集とその解釈を導くために使ったモデルについて説明することにする。

 

(注22)自由指導者財団『共産主義:批判と対案』ワシントンDC、FLF、1973年を参照。
(注23)以下の文献を参照:李相軒『統一思想』ニューヨーク、統一思想研究院、1973年。李相軒『統一思想スタディ・ガイド』ニューヨーク、統一思想研究院、1974年。李相軒『統一思想概説』ニューヨーク、統一思想研究院、1981年。
(注24)学ぶ時間が非常に貴重なので、霊的な問題にもっと時間を使うべきであり、新入会員はニューホープ・チームに入ってからファンドレージングの体験をすべきであると決定された時期があった。ニューホープ・チームは新入会員が約40日間参加する特別なグループであり、その期間に彼らは修練会のときよりもさらに実践的な詳細に至るまで統一教会での生活について手ほどきを受けることになる。例えば、彼らはファンドレージングをし、伝道をし、また「私の誓い」(注13参照)を唱和することが期待される。しかしこの著作を書いている途中に、運動は再びファンドレージングと伝道を21日間の修練会に組み込んだ。
(注25)金元弼「お父様の証」『原理的生活』第二集、ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1979年。金元弼『お父様の路程とわれわれの信仰生活』ロンドン、世界基督教統一神霊協会、1982年。金元弼「ソウル:青坡洞教会と開拓」『トゥデイズ・ワールド』1982年10月号。金元弼「平壌から釜山へ」『トゥデイズ・ワールド』1983年4月号。これら全ては、文と共に韓国動乱の際に釜山に避難した草創期の弟子の講話を書き起こしたものである。彼は私が参加した1977年の21日間の研修会で3回講義をした。『トゥデイズ・ワールド』1982年1月号、9月号、10月号、1983年4月号も参照のこと。
(注26)「季刊祝福(Blessing Quarterly)」はこのような証しを多数掲載している。
(注27)120日間修練会のテキストについては、周藤の「120日修マニュアル」も参照せよ。
(注28)最近ではビデオに録画した「統一原理」の講義が多く利用されている。これをゲストたちはビデオのブースにはいって自分で学ぶことができる。明らかに、これは日本で運動を紹介する方法として特に一般的になってきている。

 

 

 

 

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